浄土真宗本願寺派 教念寺
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仏教コラム
 第130話 遺言を考える
 「自分が死んだらお葬式はいらない」「法名(戒名)は必要ない」などの生前中の言葉がどれだけ重いものであるかを考えてみる必要があります。
 この言葉の意味するところは何なのでしょうか。「会ったこともないお坊さんにお経をとなえてもらっても意味がない」「死んでからも俗名でいいではないか」という考えなのかもしれません。何の教えにも依らないのであればそのような考えも尊重されると思います。しかし「自分の家は代々浄土真宗だから」ということで残された家族が仏教徒としての道を歩もうとする時、はたと生前の言葉の扱いに苦慮することになるのです。
 随分前のことですが、ある方のお葬式をおつとめすることになりました。「戒名(と言っていました)はあります」「それは良かったですね」と申し上げて見せていただくと、おおよそ浄土真宗のご法名とは言い難い長い漢字が重ねられているものでした。「これはどこで戴いたのですか」と尋ねると「主人が考えたものです。どうかこれを使ってください」ということでした。「お気持ちはわかりますが、法名は故人を飾る装飾品ではありません。すべてに正しい意味がありますので」と申し上げました。仮に主人の遺言で「南無阿弥陀仏」は好きではないので「南無妙法蓮華経」と称えて欲しいとお願いされてもその通りにおつとめすることはできません。「自分」という我執の中でしか生きることのできない私が正しい教えに導かれて仏教徒として歩むことによろこびを得ることが仏縁です。
 親鸞聖人は「某(それがし)閉眼せば、賀茂河にいれて、魚(うお)にあたうべし(私の命が尽きれば賀茂川に流して魚にあたえておくれ)」(改邪鈔)と晩年申されました。
 しかし、聖人がご往生されたとき、残された方々は涙ながらにお身体を荼毘に付して遺骨を大切に持ち帰られました。聖人の遺言は実行されませんでした。
 その言葉の奥底にある思いを受けとめ、お念仏に育てられた門弟たちがこころからのお見送りを選んだのでした。