浄土真宗本願寺派 教念寺
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仏教コラム
 第140話 雑草と薬草
 「人間にその価値が認められず、人間にその価値が認められるまでのよびかた」これ何のことかといえば私たちが日頃「雑草」と呼んでいる植物のことです。雑草という植物はなく、すべて名前がついていますが、私には何の関わりもなく、時には勝手に繁茂したりすることを嫌ったりしています。
 しかし、ある時私たちの生活に有益なことがわかると「薬草」としてその名を呼び珍重さえするのです。自分にとって大切かどうか、とても簡単な判断のようですが、実はそうではありません。
 自分の都合で貪り、自分の都合で怒り、自分の都合でしか物事を理解しない私である、このことを知らない人が多くいます。この正体は煩悩という私に備わっている心の姿なのです。もしこれがすべて目の前に並べられたらきっと愕然とするに違いありません。
 そこで私たちは悪なること、してはならないことがわかったならばすぐにでも止めることができると思っています。
 けれども、それは簡単に止めることが出来ない存在なのです。その自己中心の自らの姿に深く悩まれたのが親鸞聖人でした。私自身を知り、私自身を理解することは困難なことです。
 「凡夫といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと」『一念多念証文』
(人の本当の姿は)自分のことしか考えず、欲にまみれた生き方しかできず、死を迎えるその時まで、なくなることも消えることもない、と言われたのです。
 まさに、この煩悩の三毒の中にしか生きることができない私の悲しさです。
 雑草でも薬草でも同じく救いの光明を与えられたことに出会い喜ぶ縁でもあったと受け止めることでもあったのです。