浄土真宗本願寺派 教念寺
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 第9回 親鸞聖人のご生涯(2)

 さて、吉水の法然上人のもとで念仏の道に入った親鸞聖人、たくさんのお弟子さんの中でも徐々に頭角を表し、法然上人から絶大な信頼を得るようになるんだ。でも、そんな吉水での暮らしも長くは続かなかった。法然上人やその弟子たちの活躍を快く思わない人たち、たとえば前に親鸞聖人がいた比叡山のお坊さんたちとかが、いろいろ文句を言ってきた。で、しまいには朝廷に「あの念仏教団はいかんですぜ」と訴え出たんだね。当時、政治と宗教は切っても切れない関係があって、朝廷はその訴えを断りきれず、ついに法然上人の念仏教団は解散させられちゃったんだ。

  それだけじゃなく、法然上人も親鸞聖人も、僧籍を奪われ、罪人として流罪・・・つまり島流しされることになったんだ。法然上人は四国へ、親鸞聖人は越後、今の新潟県へ。聖人35歳の時のことだった。寒い雪国の越後、聖人にとって辛いことだったと思うけど、でも聖人はこう言われてるよ。「私がここに来ることがなければ、この地の人々が救われることはできません。これも阿弥陀様の御恩です」ってね。

  このころ聖人、自分を非僧非俗・・・「僧に非ず、俗に非ず」と言われたよ。そして「愚禿親鸞」と名乗られたんだ。非僧非俗ってのは「国家認定の僧籍を持つ者ではないが、世俗の論理で生きる者でもない」ということ。愚禿っていうのは、「禿」とは髪の毛がのびている状態、「愚」はみにくくあさましい心を持った凡夫という意味。聖人は逆境の中で、いよいよ自身を見つめ信を深められていくんだ。

  さて、越後の地で聖人は結婚されるよ。相手は9歳年下の恵信尼さま。聖人は「肉食妻帯」という当時のお坊さんにはタブーとされていたことを、日本で初めて堂々とやってのけたんだ。恵信尼さまはとても教養の深い女性で、後にこの人のお手紙から親鸞聖人の日常の様子が伝えられることになるんだよ。

  42歳になった聖人は、家族とともに関東の常陸の国、今の茨城県に移り住み、それから20年間に及ぶ東国布教をされるんだ。集まる人々に身分の差なく接し、御同朋、御同行と語りかける聖人に、門信徒はどんどん増えていくよ。聖人を恨んで一時は殺そうとくわだてた山伏弁円が、最後には聖人の心にうたれて弟子になってしまった話、村一番の嫌われ者、乱暴者の悪四郎が、聖人に導かれて弟子になり人が変わったようにおとなしくなった話などなど、武勇伝はたくさんあるんだ。そうやって念仏者集団の基礎が出来上がり、そのような中、聖人は浄土真宗の教えの中心になる本、『教行信証』を書かれたよ。

  62歳になった聖人は、関東の地を離れて京都に行かれるよ。さきに書かれた教行信証に手を入れて完成させ、今度は文字を読めない人が口ずさめるようにと、和讃を書き始めたんだ。あの和讃の節回しは、当時の流行歌の節回しで、覚えやすいようにああいう節にしたんだって。で、執筆のかたわら、たずねてくるお弟子さんに教えを説いたり、関東のお弟子さんにはたくさんのお手紙をかかれたんだ。そのお手紙は『御消息集』といって、今もその一部が残っているんだよ。

  さて、そんな聖人に悲しい事件がおきるんだ。門信徒教化のために関東に残してきた息子の善鸞さんが、「父から密かに教えてもらった」といって念仏の教えを否定し、間違った教えを広め始めたんだ。さらに善鸞さん、当時念仏者を取り締まっていた鎌倉幕府に、有力門信徒を訴え始めた。多くの門信徒が捕らえられ、当然教団は動揺するよね。聖人はやむなく、親子の縁を切ることを息子に言い渡したよ。これがいわゆる「善鸞義絶事件」。その善鸞さんに宛てた文書の最後に「かなしきことなり」と記された聖人、本当につらい決断だったろうね。

  数々の事件にもめげず、精力的に著述活動をすすめていた聖人だったけど、1262年、90歳でついに往生されたんだ。その後、本願寺を中心に聖人の教えは日本各地に広まり、今この時代まで脈々と続いてきたんだよ。