浄土真宗本願寺派 教念寺
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 第21回 平安仏教と源信和尚
 聖徳太子が取り入れた仏教は、奈良時代・平安時代を経てこの日本に根付いていくよ。とはいえ、そう簡単に広まったわけじゃない。

  奈良時代の仏教は、「鎮護国家」といわれて、人々の救いではなく、国の安泰を目的としていたよ。お坊さんたちは仏教の教えを勉強することと、加持祈祷、つまり仏様に「国を守ってください」ってお祈りすることを仕事にしていた。あの「奈良の大仏」も、鎮護国家のために作られた仏様さ。仏教は国の政治のすぐ近くにはいたけど、一般民衆にとっては自分と全然関係ない遠い遠い教えだったんだよ。

  平安時代に入って、仏教はだんだん形を変えてくる。何と言っても大きかったのは、最澄・空海の2人の存在。2人とも遣唐使として中国に渡り、留学生として仏教を学び、多くの経典とともに帰国した。それぞれ天台宗・真言宗を開いたのは、学校でも習ったよね。

  最澄は、今の京都と滋賀の県境にあたる比叡山に、「延暦寺」っていうお寺を建てた。そして、「あらゆるものは仏になる可能性を持っている」とする「一乗思想」を展開したよ。一乗っていうのは、「菩薩の慈悲によってすべてのものが一つの乗り物に乗るように平等に救われる」ってことだから、何のことはない、大乗仏教そのものだね。ここに来て、やっと仏教は民衆に開かれるものになってきた。

  比叡山にはたくさんのお堂があって、そこに居たお坊さんの数も半端じゃない。そしてここで学んだお坊さんたちの中から、法然上人や親鸞聖人、日蓮上人や道元禅師といった、鎌倉仏教を代表するたくさんの名僧が世に出ることになるんだけど、それは後の世の話。

  この比叡山に、「源信和尚」っていうお坊さんがいたよ。親鸞聖人が、七高僧の第六祖に仰がれている方で、恵心僧都とも呼ばれているよ。とっても頭の良い方で、9歳で比叡山に入り、13歳でお坊さんになった。で、15歳で何と、時の天皇陛下の前で仏教の講義をしたっていうんだから驚きだね。で、この時のエピソードが面白いよ。

  源信さんのお話に、天皇陛下が喜んで、たくさんのご褒美をくださった。で、源信さんは田舎に暮らすお母さんに、褒美の品を送ったんだ。でも、その品が送り返されてきた。一緒に送られてきた母の手紙には、「後の世を渡す橋とぞ思ひしに 世渡る僧となるぞ悲しき まことの求道者となり給へ」つまり、「名声や財産を求めさせるためにあなたを比叡山に送ったわけじゃない。そんなことより、早くすべての人々が救われる道を求めておくれ」と書かれていたんだ。

  源信さんももちろん立派な方だけど、このお母さんがすごい人だね。源信さんは人の集まる比叡山の中心地をさけ、横川というちょっと寂れた所に住み、念仏修行にあけくれたよ。そして『往生要集』って本を書かれたんだけど、その序文にこんなことを記したんだ。
「私のような頑魯(愚か)の者が救われていく道は阿弥陀如来のみ教えしかない」って。不思議なことだけど、比叡山を開かれた最澄さんは自分を「愚中の極愚」といい、法然上人が「愚痴の法然房」といい、親鸞聖人が「愚禿鸞」って言ってるね。立派な人ほど自分を愚かって思ってるんだ。

  源信さんは、それまでの雑多な修行の中で、「念仏こそが本当の行だ」と説かれたよ。そして戒律を守ることは、補助的な手段だって。「人間は煩悩に満たされているが、その煩悩のまま一心に阿弥陀仏の名を称えれば、阿弥陀仏の慈悲により、必ず往生できる」 この教えが、法然上人や親鸞聖人の鎌倉浄土仏教に引き継がれていくんだよ。