睡蓮の観察

 先日、出先で綺麗な睡蓮に出遭いました。小さな池にいくつか咲いていただけですが、白、レモン色、ピンク、紫といろいろな色の睡蓮が咲いていました。親指姫になって花の真ん中に座れたらいいなぁと思ったりしました。
 睡蓮を写真に収めながら、寺田寅彦の随筆の『睡蓮』を思い出していました。有名な『天災は忘れた頃にやって来る』と言った人ですが、随筆は物理学者ならではの科学の眼差して切り取られた日常の風景です。その描写のままに可憐に咲く睡蓮に感動して、また随筆を読んでみたくなりました。
 『睡蓮を作っている友人の話である。この花の茎は始めにはまっすぐに上向きに延びる。そうしてつぼみの頭が水面まで達すると茎が傾いてつぼみは再び水中に没する。そうして充分延び切ってから再び頭をもたげて水面に現われ、そうして成熟し切った花冠を開くということである。つまり、最初にまず水面の所在を測定し確かめておいてから開花の準備にとりかかるというのである。』という出だしです。
 この睡蓮に関しては、彼の観察眼ではなくお友だちの話なのか、と少々驚きました。もちろん、その話を聞いた後がまた彼らしい考察に結びついているのですが、私はずっとそれを彼の観察眼だと思い込んでいました。
 思えば生活の中には沢山の思い込みがあります。全部自分勝手な思い込みで『何でこうなるの?』『こんなはずじゃなかった』等々悲しくなったり怒ったりする事ばかりです。思い込みだとわかった時に、落胆するばかりでなく、清々しい気分になったりホッとしたりする事もありますが。
 ちょうど良い場所に開花の準備をするという睡蓮に、己の思い込みを捨てて、自分の立ち位置を理解しなされと教わった気分になりました。
 仏教では観察を『かんざつ』と言い、仏の智慧によって対象を正しく見極める事ですがただの『かんさつ』すらも難しく、更にそこに『思い込み』なる主観ががんがんに入ってきていて、なんだかなぁ、と苦笑いです。水面に無心に咲く睡蓮にまで、恥ずかしい気持ちになるばかりです。

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