お経の徳
先日、ある住職さんから次のような話をお聞きしました。「お寺にご門徒さんが訪ねてきて、郷里の親戚が亡くなられた、ということでした。コロナ感染の心配があるのでお葬儀には出られそうにありません。ついてはお葬儀の日に同じように、こちらのお寺でお勤めしていただきたい」というお願いがあったそうです。
今年はコロナ禍にあって様々なことが変容を来していますが、ご法事についても同様です。延期や中止はもとより、お参りに行くことも、来ていただくことも自粛ありきです。そのような中で遠方までお参りすることが出来ないため、お勤めの依頼をされる方があることを大変尊く思いました。
このたびのコロナ感染は平和な日常を覆す大きな災禍ではありますが、同時にいのちの大切さや生かされている意味、そしてその尊厳を考える機会でもありました。
さて、浄土真宗のご法事の意味は亡き方への追善供養ではないことは、これまで何度も申し上げました。一般的には「お経をあげてもらって故人が浮かばれた」と思う方があるかもしれません。辞書には「浮かばれる」を「死んだ人の魂が慰められる。死者の無念さが解消されて霊が成仏する」と あります。お経にはそれだけの見えざる力があると思っている方が多くいるのではないでしょうか。お経はお釈迦さまのお説きくださった教説が文字となっているものですから尊いものであることは間違いありません。しかし、供養のための呪文でもありません。
浄土真宗のご法事は仏さまのお徳を讃える(仏徳讃嘆)ため、亡き方がお浄土に生まれたことを歓ぶため、そしてこの私がお浄土に往生することに願いを持たれている阿弥陀さまのお心に応えるためのものなのです。ですから、ご法事をお勤めすることは「亡くなった方のため」のようですが「今、生かされている私のため」に亡き方が用意してくれたご法縁であると受け止めるところに本来の意味を味わうことができるのです。
深遠なる阿弥陀如来の願いを身に受けつつお念仏申したいと思います。