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おみのりの鎖

 先日、コロナ禍でなかなか会えないままになっていた、先輩坊守にお会いするご縁が整いました。初めてお会いした時は、まさにご法縁としか言えない出遭いだったのですが、何度かのお手紙のやり取り後にお会いした時の事が忘れられません。
 突然お伺いしましたのに、大変温かく迎え入れてくださりました。そして、お寺を現住職夫妻に譲ったので、お寺の経営や雑務から離れた、これからは純粋に法に触れていきたい、学びたいと仰っていらっしゃいました。たくさんたくさん働いてきて、今やっと自分の為におみのりに出遭う事ができる齢になったのだという事を、大変穏やかな話しぶりで仰っていらしたのです。
 私は、住職や坊守は、仕事というよりは生き方に近いように思っています。少し空いた時間で何処かへ出かけても、このお店のこれがよかったから、うちでも真似しようかな、とか、これは門徒さんが喜ぶのではないか、とか、常に常に考えてしまうのです。
 ある時一緒に出かけた友人に、出かけている時くらいお寺の事を考えるのをやめなよ、と言われた事がありました。彼女は、ON・OFFを分けなよとアドバイスしてくれたのです。
 仕事ならそれができますが、生き方としてのお寺だとそれがなかなか出来ないんだよ、と苦笑いしまして「ま、芸術家だと思ってくれればいいよ」と言いましたら「なるほど、それならわかりやすい、で、なんのアートなの?」と言うので「落書き屋さん」と答えて大笑いしました。
 そんな事がありましたから、先の先輩坊守にお会いしました時、あぁ、私が本当に生き方としての坊守になるのは代を譲ってからなんだな、と実感しました。これからは自分の為におみのりを聴いていきたいと仰った先輩坊守は、目をキラキラと輝かせていらっしゃいました。後に私の母と同い年とわかり、なんと前住様は父と同い年でした。実は亡父が一度お参りに行きたいなぁと言っていたお寺でもあり、その日も墓前で父に前坊守様にお会いしてくるね、と、手を合わせてから伺ったのでした。
 おみのりのご縁は、優しくたおやかな鎖のような気がしています。父や祖父母から渡された鎖を、私もきちんと渡していかねばなりませんね。

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