蓮如上人御一代記聞書53
「ぬれたる物をほす」
蓮如上人は、弥陀の光明について、次のようなたとえでお話しくださったよ。
弥陀の光明は、たとへばぬれたる物をほすに、うへよりひて、したまでひるごとくなることなり
「うへ」とは表のこと、「した」とは、裏ということ。「ひて、ひる」というのは乾くという意味だよ。つまり、「弥陀の光明のはたらきは、たとえていえば、濡れたものを干すと、表から乾いて、裏まで乾くようなものだ」ということになるね。
洗濯物は、自分でどんなに乾きたいと思っても、洗濯物には力がないから乾くことはできない。日の光があたって、初めて乾くことができるんだ。
僕たちの仏道も同じなの。自分でどんなに仏になりたいと思っても、ぼくたちは乾かす力のない洗濯物といっしょで、自分で仏になることはできないんだ。でも、阿弥陀様の光にじっくり照らされたなら、僕たちは変わることができるんだよ。
では、どう変わるのか。上人は、「決定の心がおこる」とおっしゃってるよ。決定の心とは、浄土往生の定まった、たしかな信心のこと。「阿弥陀さまで大丈夫なのかな」「他力といっても、少しぐらいは自分でがんばらなきゃいけないんじゃないかな」そんな疑い心がなくなって、ただ阿弥陀さま一筋におまかせする心をいうよ。
もとより、妄念妄想のぼくたち凡夫には、そんな心はないよ。「自分はできるんだ」ってうぬぼれ心がこびりついていて、どんなことでも自分でなんとかしようとする。 実はこれが自力のしぶとい心なの。この自力心、疑いの心をなくすには、阿弥陀さまのお心を聞くほかない。阿弥陀さまの「お前を必ず救う」という願いがどうして起こったのか、そのためにどんなご修行をされたのか、やるせない親心を聞くほかないんだよ。
信は願より生ずれば
念仏成仏自然なり
(親鸞聖人 高僧和讃)
信は自分の心から起こるのではなく、阿弥陀さまの願心から起こるもので、だからこそその願に誓われた念仏で仏になることができるんだ。