形見分け
以前、ある方から「私の古くからの友人が数年まえに亡くなりました。病気が重くなっていく中で何人かの友人を自宅に呼び、形見分けをしたいと言われました。高価な品々を目のまえに出され、好きなものを持ち帰って欲しいとのことでしたが、皆とても困りました」というお話を伺いました。
このような経験のない私ですが同じような場面にあえば困惑するだろうと思いました。人は安いものやどこにでもあるものより、高価なものや希少価値があるものを欲します。しかし、形見分けとなると価値の高低ばかりにその意味があるわけではありません。
われ称え われ聞くなれど
南無阿弥陀
つれてゆくぞの
親のよびごえ
これは江戸時代末期から明治にかけて活躍された原口針水和上の残された歌です。七十七歳喜寿のお祝いに色紙にお書きになられたものです。
「この私が称え、またその自分の声を私自身が聞くのだけれど、この南無阿弥陀仏は、お浄土に連れて行くぞといわれる阿弥陀さまの喚び声に他ならない」という意味です。
念仏は私の口で私の声で称えていると思っていますが、まず称えている私が一番はじめに聞くためにあります。その一声一声を阿弥陀さまがこの私を浄土に連れて行くぞ、という声に聞かせていただいていることに深い味わいを頂戴するばかりです。
このような味わいは自分の味わいでありながら、自分だけのものではありません。お念仏の尊さを多くの方から伝承されたものでもあります。まさに形見分けをしていただいたのです。
そのように考えると形見分けは自分が貰うものではなくて、次の方に伝えるために私が大切に預かっているものなのではないでしょうか。
どうぞ、あなたのお念仏を多くの方に形見分けなさってください。