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蓮如上人の御生涯 7
「両堂の造営と東国旅行」

 蓮如上人26歳の時、祖父巧如上人が亡くなり、父の存如上人が本願寺第七代ご門主となられたよ。
 存如上人は継職されると、現在崇泰院のある東山の元大谷の地に両堂の造営、つまり御影堂と阿弥陀堂を別に建てるという大事業に取り組まれたんだ。それまで本願寺の本堂は宗祖親鸞聖人の影像と並び阿弥陀仏像を安置していたんだけど、その配置に反対をとなえる人も多く、ひとつずつ別に建てる必要が出てきたんだ。
 度重なる飢饉や争乱により門徒の寄進がはかどらず、十数年もの年月をかけてようやく両堂は完成したよ。その規模は、御影堂は五間四面、阿弥陀堂は三間四面で、今の規模とは比べることもできないほど小さかったけど、でもここに 御影堂と阿弥陀堂が並立する両堂形式が整ったんだ。ちなみに、お堂の位置関係は今の本願寺とは逆で、向かって右側(北側)に 御影堂、左側(南側)に阿弥陀堂があったそうだよ。
 それに時を同じくして、蓮如上人の東国旅行が行われたよ。上人35歳となった1449年、存如上人の伴をしてまず北陸に向かい、そこで別れて関東から奥州へと向かわれ、なんと松島(現岩手県)まで行かれたそうだよ。帰路は東海道を通り、三河の諸寺をたずねられた。親鸞聖人の遺跡を巡拝し、東国真宗の状況をご覧になるとともに、各地の門徒とつながりを持ち、沿道の人々の生活に接する貴重な旅となったんだ。
 でもこの頃まだ本願寺の力は小さかったので、沿道に出迎える人もなく、わずかな伴をつれただけのひっそりとした旅だったよ。もちろん馬や輿などはなく、道中歩きづめの苦しい旅で、足にわらじのくい込んだ跡が残り、晩年まで消えることはなかったんだ。
 この東国旅行、「坂東修行」ともいわれ、覚如上人以来の慣習となっていて、本願寺の門主となるための必須の要件とされていたよ。蓮如上人はこの旅で、ご門主となる資格を得たことになるんだ。そしていよいよ、ご門主となるその日は近づいてきたんだよ。

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