蓮如上人の御生涯 10
「寛正の法難」
蓮如上人の「祖意(親鸞聖人の心)にかえれ」と言わんばかりの大改革は、大きな波紋を起こしたよ。
正信偈を朝夕の勤行に定めたことは前回話したね。すると門徒さんたちの間で、「ここには何が書かれているのか」とその意味を知りたがる人たちが出てきたんだ。蓮如上人はそれをのがさず、「正信偈大意」を表して、親鸞聖人のお心を伝えられた。
また、初めて書かれた御文章には、「いかに罪深い人であっても、一心に疑いなく弥陀の悲願をたのむ心の起こる時、弥陀は光明を放ってその人を摂取する」と、浄土真宗の教えの肝要が示されたんだ。そうして、草原に火が燃え広がっていくように教えは広まり、近江(滋賀県)・近畿・東海の各地に村民がこぞって真宗門徒化する風潮が出始めたんだ。
でもそれを心良く思わない人たちがいたよ。それまで本願寺を配下におさめていた比叡山さ。自らの足元に広まっていく真宗の教えを苦々しくながめていた。そんな時、蓮如上人による天台本尊や経典の棄却が問題となり、それを口実に本願寺を弾圧しはじめたんだ。
寛正6年(1468年)正月8日、比叡山衆徒(僧侶たち)は西塔に集合して、本願寺の破却を決議したよ。「蓮如は無碍光という一宗をたて、仏像や経典を焼失し、神明を軽蔑している。仏敵・神敵である」とね。そしてその翌日の9日、衆徒は東山大谷の本願寺に押し寄せたんだ。
この日、本願寺は門徒十数人が警備するにすぎず、不意をつかれたよ。衆徒は坊舎を破壊し、財物を奪い取るなど狼藉の限りをつくし、御堂衆の正珍を蓮如上人と勘違いしてとらえて引き上げたんだ。
急を聞いて集まった各地の門徒たちが、緊急の対策会議を開き、3千貫を支払い、さらに毎年同額の銭を西塔院に寄進することで解決したんだ。
でも比叡山の弾圧はこれでは終わらなかったの。同年3月にも再び衆徒の襲撃があり、このときは坊舎が徹底的に破壊されたよ。蓮如上人は京都市内、摂津、河内を移り住み、所在を隠すほかなかった。でも、これが今後真宗の教えが広まっていく大きなきっかけになったんだよ。