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蓮如上人の御生涯 11
「金森(かねがもり)の戦い」

 寛正六年(1465)大谷本願寺破却の後も比叡山衆徒の攻撃はおさまらず、近江の本願寺門徒の拠点である金森(かねがもり)を包囲したよ。門徒たちは道西を中心に結束し、柵を設け塁を築き、比叡山衆徒に対抗したんだ。この時代、武士でない一般の人たちも自衛のための組織をもっていて、あなどれない力になっていたの。近江にあるもうひとつの門徒の拠点、堅田からは80人もの屈強な若者が応援にかけつけたよ。堅田衆、たのもしいね。
 翌文正元年(1466)8月、一気に門徒勢を叩き潰そうと攻め込んできた比叡山衆徒に対し、門徒軍は金森から討って出て逆襲し、たちまち敵将を倒し大勝利をおさめたんだ。
 勝利の知らせが蓮如上人のもとに届くと、上人は大変機嫌を損ね「言語道断のことをしてくれた、誰の命令で戦いをはじめたのか。はやく軍隊を解散するように」と厳しく命じられたんだ。
 歴史の教科書などをみると「蓮如が一向一揆を指揮していた」かのように書かれているものもあるけれど、とんでもないことで、蓮如上人のお心は争いを好まれず、万事穏便にことがすむことを願われていたんだね。
 金森の門徒軍は解散し、堅田門徒も帰っていったんだけど、事件はそれで終わらず、今度は堅田門徒が攻められることになったんだ。蓮如上人の門弟、堅田本福寺の法住は談判のため、比叡山に登ったよ。根本中堂正面の柱に蓮如上人からいただいた「帰命尽十方無碍光如来」の本尊をかかげ、「我ら一文不知の凡夫は、清浄の行は及び難く、弥陀の教えをあおぎ無碍光の尊号を拝するのである。なにゆえこれを邪法というのか」と熱弁をふるったよ。法住さん、蓮如上人の教えを正しくいただかれていたんだね。
 衆徒からは反論の声もなく、この本尊は容認するということになり、今回の事件はようやく解決したんだ。でも、蓮如上人に対する追求、圧力はその後も続き、蓮如上人も親鸞聖人の祖像も、その後数年間、各地を転々としなければならなかったんだ。

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