蓮如上人の御生涯 12
「堅田本福寺での報恩講」

文正二年(1467)、金森(かねがもり)の争いから一年がたち、比叡山衆徒との争いもようやく落ち着いたよ。堅田の本福寺に待望の親鸞聖人像が動座され、蓮如上人ご出座のもと報恩講が勤められたんだ。
『本福寺由来記』には、
「蓮如上人様御下向ありて、二十八日までの七昼夜の知恩報徳の御仏事、するすると難なくわたらせおわし…喜びの中の喜び、幸の中の幸、本懐満足、何事かこの一事にしかんや」
と、その喜びが綴られているよ。
蓮如上人は門徒の家々に気軽に出かけて法をすすめて歩いたので、堅田の町には念仏の声が満ちあふれたそうだよ。
ある時、堅田にある念仏道場が火事になったんだ。その道場の仏壇には、蓮如上人から授かった無碍光如来の本尊がかけられていたんだけど、燃え盛る火の中から金色に輝く仏像が飛び立ったんだって。それを見た漁師が探してみると、湖畔の石くらの間にご本尊がきちっと巻かれておかれていたというエピソードが伝わっているよ。蓮如上人が堅田門徒に尊敬され、慕われていた様子が目にうかぶね。
でも、比叡山衆徒との停戦は、礼銭によって保たれた一時的なものでしかなく、その危うさは続いていたんだ。だから上人は第八子光養丸(実如上人)への譲状をしたためたよ。これは本願寺の後継者を誰にするかを定めた書状で、比叡山への配慮の一環としてご自身の隠退を表明されたんだ。
そんな中、京都の町は戦塵のちまたと化し、いつ収まるとも知れない戦乱の世となるよ。みんなも学校で習ったよね、そう応仁の乱さ。将軍家の世継争いがきっかけとなり、有力守護大名の畠山氏や斯波氏の家中での家督争い、山名宗全と細川勝元の争いも加わり、京都市内を中心に東西に分かれて争われた。応仁の乱はこの後11年も続き、京都だけでなくそれぞれの領地に飛び火して、日本中が争いに巻き込まれることになったんだ。
蓮如上人のおられた近江にも戦火は広がり、避難を余儀なくされたよ。やっとおとずれた平和な時は、わずか数年しか続かなかったんだ。