仏飯に思う

 平成5年に起こったいわゆる「平成のコメ騒動」をご記憶の方も多かろうと思います。この年は記録的な冷夏で著しい凶作となりました。その原因のひとつに平成3年に発生したフィリピンのピナトゥボ火山噴火が影響している、といわれています。「米不足」が世の中の合言葉のようになって緊急輸入したタイ米が市中に出回りました。
 それから32年経った今年、米不足から著しい価格高騰を招いています。
 統計では昭和37年には年間ひとり118㎏の米を消費していましたが、令和4年には51㎏までに減少しているそうです。
 飽食が当たり前になった今日では、コメ以外に食を求める人も多くなったということでしょうか。 こうして、コメを食べなくなった日本では「コメ余り」が起こり、政府が減反政策を主導することとなりました。コメを作らないことに補助金を出すということです。やがて、小規模農家は稲作から離れ、さらに継承者も減少していきました。
 このような背景から不作以外の様々な要因で価格高騰に転じたのがこの度の「令和の米騒動」なのです。
 さて、私たちは日々仏前にご飯をお供えしています。これは、私たちが日々食べものをいただいて生命を繋いでいて、その柱がお米(ご飯)である、との考えから「きょうも生命をいただきます」という感謝を仏さまに捧げている姿です。
 「私のいのちは私のもの」と考え、私のいのちや幸福に寄与した事柄に感謝すれば良い、と思う人には少し難解かもしれません。
 「私の心の有りようを知る」ことが仏さまに眼を向けるスタートです。
 「私」は「私」以外では生きることはできません。その「私」を「私」は理解していないのです。理解したり満足したりするのは「私の欲望」です。それは暗闇のなかにいる「私」に気付くことがスタートです。

 無明の闇を破するゆゑ
 智慧光仏となづけたり
  「浄土和讃」

 親鸞聖人は私達の心の闇をうち破ってくださる阿弥陀さまの智慧の光を「智慧光」と讃嘆されました。この私の心の闇を照らすのは阿弥陀さまに依る以外ないことを喜ばれたのです。
 その大いなる救いの光に感謝して今日もお仏飯を上供させていただきたいと思います。

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