蓮如上人御一代記聞書8
「他力信心をよくしれと」
みんなは、お経を読むとき、どんな心で読んでいるかな?
蓮如上人は、「正信偈和讃をおつとめして、阿弥陀仏や親鸞聖人にその功徳を差しあげようと思っているのであれば嘆かわしいことだ」とおさとしになったよ。
蓮如上人のご功績のひとつに、正信偈和讃のおつとめをはじめられたことがあげられるよ。それまで浄土真宗では善導大師がかかれた「六時礼讃」という難しいおつとめをしていたんだけど、これではなかなか教えに親しめない。上人はどうしようかと考えられて、親鸞聖人が著わされた書物の中から「正信偈」と「和讃」を選び出されて、朝夕のおつとめとして定めてくださったんだ。
でもそのとき、どんな心でおつとめしているかが問題になるよ。というのも、浄土真宗以外の他宗では、読経の功徳を仏さまに差し向けるのが、今でも普通に行われているね。浄土真宗の読経も同じように考える人が多くいて、それでこのようなお示しをくださったんだ。
そもそも正信偈には、阿弥陀様が世を超えた願いをたてられたこと、そのことをお釈迦さまが僕たちに説いてくださったこと、それでもわからない僕たちのために七高僧様がたが丁寧に教えを説いてくださったことが書かれているんだ。でも、漢文だからまだちょっと僕たちには難しい。そこで少しでもわかりやすいように、それらの内容を和文で説かれたご和讃をあわせて読むようにされたわけ。
だから浄土真宗のお経は、読むものであると同時に、聞くものなんだ。阿弥陀様の願いがなんでたてられたのか、誰のためにたてられたのかを聞かせてもらうの。
御一流には他力信心をよくしれとおぼしめして、聖人の和讃にそのこころをあそばされたり
次々と地獄に落ちていくぼくたちのために、阿弥陀様は必ず救ってみせるという願いをたてられた。すべての功徳は私が用意したぞ、だから何も心配せずにまかせてくれよと願われているんだ。その願いを聞かせてもらうそのままが他力の信心で、そうして聞くことのほかに信心はないんだよ。