よろこびを満たす
しばらく前のことですが、病気で入院されていた門徒さんがお参りにみえました。病気が良くなって退院のその日に自宅に帰るまえにお越しくださったのです。「まず最初に仏さまに報告したくてお参りさせていただきました」と仰いました。きっと、入院中に「いのち」について何度も考えられたのではないでしょうか。日頃からお聴聞を重ねておられた方ですので、念仏して病気が治った、などと思うことはないでしょう。病床にあって気弱になっていた自分がまた元気になってお念仏申すことができるよろこびを感じられたに違いありません。よろこびに満ちた笑顔が忘れられません。
日頃、私たちのよろこびは身近なところに存在します。「今日もよく寝られた」とか「風呂あがりのビールがうまい」とか「〇〇で儲かった」などです。実は些細なことをよろこびとしています。
私自身が五欲という欲の中に身をおいているのです。例えればふたのない容器に揮発性の液体を満たしているようなものです。放っておくと蒸発してどんどん目減りしていきます。ですから常に満たしておかないと安心できません。「ふたがない」というところが私の悲しい姿です。
しかし、いつでも満たし続けられるわけではありません。全く反対に眠ることもできず、お酒も不味く、何をやっても損ばかりしていたらどうでしょう。自分の不運を嘆いたり、他の人を恨んで生きることになるかもしれません。よろこびがあっという間に不満や不幸で満たされてしまうのです。
親鸞聖人は「たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」(教行信証 総序)と、念仏の教えに出遇わせてくださった「宿縁」に対する慶びを表しておられます。念仏の教えに出遇うことができたのは、出遇うように願われ続けてきたという「宿縁」をこころからよろこんでおられるのです。
何と、このよろこびにはきちんとふたがついていて、どんなことがあっても蒸発したり無くなったすることはありません。 本当のよろこびとは阿弥陀如来の願いを受け止めることだったのです。