蓮如上人御一代記聞書12
「水よく石を穿(うが)つ」
仏教を学んでいても、何だかよくわからないなって、いやになって投げ出してしまいたくなることはないかな?
蓮如上人は、平安時代のある高僧のことばを引いて、
至りてかたきは石なり、至りてやはらかなるは水なり、水よく石を穿(うが)つ、心源もし徹しなば菩提の覚道なにごとか成ぜざらん
と教えてくださったよ。
京都の名刹といわれるような古いお寺に行くと、雨だれが穴をあけた石を見ることがあるね。ポタポタと落ちる雨だれ。どれほどの力も持たないように思うけど、同じところに長い時間をかけて落ちるうちに、固い固い石に穴をあけてしまう。
同じように、心を込めて修行を続けるなら、仏のさとりも必ず得ることができるということなんだ。
さて、僕たちにとっての修行って何だろう。滝に打たれたり、お堂に籠ってお経を称え続けたりなんて厳しい修行は、僕たちにはできないね。できるのは、聴聞、つまり仏さまの教えを聞くことだけ。内容がわかろうとわかるまいと、信じられようと信じられまいと、聴聞し続けることが大事なことなんだ。
そしてもうひとつ。聞きっぱなしというのはもったいないね。聞いたことを自分に引き寄せて、我がこととして聞く。自分の姿を知らせてもらうのが肝要だよ。
僕たちは煩悩に凝り固まった、固い石なの。その石に、飽くことなく法の水を垂らしてくださるのが阿弥陀様の慈悲のはたらきなんだ。聴聞するといっても、僕たちが聞いているんじゃなく、阿弥陀様に聞かされているわけ。法の水を垂らして垂らして、ついにその煩悩の石に穴をあけてくださる。そうか、自分は煩悩の塊だったのか、そしてその私のために、阿弥陀様が願いをかけてくださっていたのかって、知らされる時がきっとくる。
上人は、「ただ仏法は聴聞にきはまることなり」とおっしゃった。聞くことのほかに僕たちにできることはなく、聞くことによってのみ信心をいただくことができると教えてくださっているんだよ。