寺報から寺宝へ
~寺報300号によせて~
今年も新しい年が始まりました。令和という時代でのはじめてのお正月でもあります。
時おなじくして小誌が300号を迎えることができたことを大変嬉しく思います。多くの文章を連ねて、みなさまにお送りさせていただきました。けれども、大切なのはその内容でありますが、稚拙の域を出ることなく回数を重ねてきたことを大変申し訳なく思っています。
蓮如上人の御文章
さて、蓮如上人は生涯のうちで多くのお手紙をお書きになりました。今日、「御文章」として拝読することが可能ですが、その内容は仏恩の深きことに気付くこと、信心をいただくことがその中心にありました。
遠方の方々に教えを伝えることは並大抵の苦労ではなかったはずです。会って話しても充分に真意を伝えることができないこともありますから、文章で伝えるには簡潔にして深い理解を与えるための文章表現力の妙がなければならないのです。
蓮如上人のご催促
その御文章のなかで僧侶に対しての厳しいご催促も随所に見ることができます。
「(略)また一巻の聖教をまなこにあててみることもなく、一句の法門をいひて門徒を勧化する義もなし。ただ朝夕は、ひまをねらひて、枕をともとして眠り臥せらんこと、まことにもつてあさましき次第にあらずや。しづかに思案をめぐらすべきものなり。」(御文章第2帖)という一文などはつい先程に蓮如上人が私に対して申されたような厳しさがあります。
祖師方が残されたお聖教をひらくこともなく、門徒方に仏法を勧めることもなく、ただ惰眠をむさぼるばかりの姿はまことにあさましいものだ。(そのようなわが身をして、なにが肝要なのかを)よくよく思案せよ。と示されています。
現代の私どもにおいても「僧侶とはなにか」をつねに考えつづけなければならないのです。
住職と僧侶
ある先生から「住職と僧侶が同じであってはならない」と聞いたことがあります。住職はお寺を預かる立場の役職名です。ですから「寺院」を運営するために粉骨砕身の思いで前進してゆかねばなりません。門徒さんに法を伝えるためのあらゆる手立ても必要です。まさに運営のための舵取りを託されているのです。
一方、僧侶は求道者でなければなりません。自らが法に遇い、法に慶び、法を伝えて行くことがその姿であり、生涯にわたって貫かれなければなりません。
親鸞聖人とご和讃
さて、親鸞聖人はそのご生涯の間に540首以上のご和讃を残されました。和讃とは仏教の教義、仏や菩薩あるいは高僧の徳などを、和語でたたえるものをいいます。
私たちの日常に馴染み深いものは、正信偈のあとに六首続く七五調のうたが親鸞聖人が残された和讃です。
この和讃の意味するところを親鸞聖人は「ヤワラゲホメ」と示されています。「理解しやすいように和語で表現し、平易にほめ讃えるもの」という意をもってお書きくださったのでした。言い換えると無駄なことばを廃して、真実に遇えたよろこびを表現されたものなのです。
僧侶としての求道の日々のなかに、常に傍らに仏法の指針を残して下さったことをよろこばねばなりません。
これから先も「ヤワラゲホメ」のこころを大切に寺報発行のともしびを護っていきたいと念じています。
お寺は500年経つと尊い存在になるのだそうです。それは、多くの人たちが長き時を重ね続けることがどれだけ難しいかを表しているからでしょう。
今後、多くの方々の協力と長い年月の末に寺報が寺宝になることを夢みたいと思います。
弥陀の本願信ずべし
本願信ずるひとはみな
摂取不捨の利益にて
無上覚をばさとるなり
(夢告讃)