花びらは散っても
2年前、友人のご両親が続けて亡くなりました。大変急な事でした。亡くなる少し前に連絡があり、ある日突然友人が門徒さんになったわけですが、それは、私の中で『ある日突然』だっただけで、彼女は30年前に私に出遭った時から、そうなろうと決めていたそうで、その話を聞いた時に、これは阿弥陀様が彼女に会わせてくださったのだなぁと思ったのでした。
その友人のご両親のお骨を、大谷本廟に祖檀納骨に行ってきました。コロナ禍故の感染者増減の様子を見つつの上洛でした。昨年の祖檀納骨も、そして今回も『今しかない』時であったと思います。
手続きを待つ間、桜の花びらがハラハラと舞い散るさまを眺めていました。昨年の6月はお堂でのおつとめだけでしたが、今回はお堂の後の明著堂(めいちょどう)に納骨するまでをしっかりと見届ける事ができました。
そして、桜舞い散る中で、掲示板の『花びらは散っても 花は散らない 形は滅びても 人は死なぬ』という言葉に心が熱くなりました。金子大栄先生の有名なお言葉です。
花のいのちは、今までも、そしてこれからも続いて行くのです。『往生』と言う言葉そのもの、これからは阿弥陀様のお国へ往って、ずっとずっと生きていくのです。その阿弥陀様の大きな御手の中に『私』は人間としてつながっています。身体が滅びても『私』は無くならないのです。
掲示板近くの手水鉢が綺麗な花手水になっていて、更に周りにはたくさんの桜の花びらが味わいを出していました。
大谷本廟には私の父や祖父母も分骨をしています。身体は滅びましたがいつも私と一緒にいてくれるようになりました。掲示板の言葉の通りです。
生前父から、小鳥でも猫でもなく、人間に生まれてきたのは仏さまのみ教えを聞くためだと教わりました。仏法を聞くために人間に生まれてきたというのです。仏法は、死ぬる日の為のものではなく、私が輝かしく生きて行く為のものです。
コロナ禍であってもなくても、いつか私も散る花びらになるわけで、それまでにどれだけの仏法に出逢えるのでしょうか。花手水の小さな花筏が、そんな事を語っているような気がしました。