いい塩梅(あんばい)
「わー、これ、いいね!えーっ!小さいのにちゃんと炊けてるー!すごい!」と、帰宅してすぐの末っ子の感想。昨年の秋、炊飯器を買い替えた時の事です。花を生けても何の感想もないのになぁ、ご飯の関係の事はすぐ気がつくんだなぁ、と思いました。
末っ子は、生まれた時には3人の兄がいましたから、物心ついた頃にはもう一升炊きの炊飯器で、家で初めて五合炊きを見たのです。前に買い替えたのは三男が高校生位の頃ですから、10年以上使ったわけで、経年劣化でくたびれて上手く炊けなくなったのでしょう。
子どもが全員男子だったせいか、我が家ではパンや麺類はおやつの仲間で、とりあえず炊飯器にご飯があれば良いのでした。
子どもの友人達が代わる代わるお夕飯を食べて行く事もあり、今から炊くからご飯食べてくかどうか、を訊ねると、最初は遠慮がちに頂きますと言っていた子達が、慣れてくると今日のおかずは何?と訊いてから食べるか食べないかを決めたりするようになりました。
引退した一升炊きとその前の一升炊きは、家族だけではなく、子どもの友人達にも随分と美味しいご飯を提供してくれていたのでした。
エアコン、洗濯機、冷蔵庫などの大きな家電はいつ交換したか大体わかるのですが、炊飯器やポットのような小さな家電は、毎日お世話になっているにも関わらず、いつ買い替えたかは余り覚えていないのです。
ふと、日々の中で大きな出来事やサプライズなお楽しみは何年経っても覚えていますが、毎日当たり前にある幸せには気付かないまま感謝したり手を合わせたりする事がないなぁ、家電の買い換えと似ているなぁと思いました。
4人の子ども達も、いつでも当たり前にご飯がある環境で育ち、お陰様で全員成人しました。
子ども達が育った環境は、大変有り難いものでした。両親や祖父母の他に、沢山の門徒さんに育てて頂きました。各法要や役員会の後、そのままお寺で反省会が行われる事が多いので、子ども達は皆、ある程度大きくなるまで、門徒さん方を親戚のおじさん・おばさんと思っていたそうです。私達が行き届かない事は、いつも門徒さん方が教えてくださっていました。褒めたり叱ったり応援したり、そうやって当たり前に育んでくださったのです。
門徒さん方が育ててくださっている事がもう一つあります。それはこの『教念寺新報』です。届いた連絡をくださる方、電話やLINEだけでなく、お手紙をくださる方もあります。記事の感想を寄せてくださる方が増えてきました。誌面がお寺からの一方通行になってはいけませんから、と、始めた『感話の泉』や特別な法要時の寄稿文など、門徒さんが誌面作りに協力してくださっています。
そして皆様のお手元に届く前に発送や手配りを手伝ってくださっている方もいるのです。加えて、表紙を飾るお写真は、写真家の長島季範先生がボランティアで毎号送ってくださっていますが、教念寺新報用のオリジナルのお写真なのだそうです。他で使いになっていないお写真なのです。何とも有り難い事ばかりです。 沢山の方に手塩にかけて育てて頂いているなぁ、と、毎号毎号有難い思いでいっぱいになります。
この号は、少し前から350号だからとお祝いを送ってくださる方が何人もいらして、えっ⁈そうだったの⁈もうすぐ350号なの⁈と周りから教えてもらった、という、何ともぼんやりボーっとした『ボーもり』でありました。
そして又、体調を壊されるまで、いつも発送を手伝ってくださっていた方の訃報を聞きながらの編集となりました。
毎号、誰よりも自分が一番最初に新報読めるのよー、と目を細めて慈しんでくださいました。発送作業が終わって、ご自分の分を手に取ると、毎回表紙をご覧になって「あー、いい塩梅(あんばい)だねぇ、坊守」と仰るのです。ですから、彼女がお手伝いに来られなくなってからは、彼女宛の分を発送する時「今回もいい塩梅でしょう?」と心の中で呼びかけていました。
手塩にかけて育むから、『いい塩梅』になるのですね。
新報も子も人もお寺も、『いい塩梅』に育てていかないとなりませんね。
子育ては親育て、成人してもまだまだ終わらないみたいです。教念寺新報も次代にバトンタッチするまで、いい塩梅に育てましょう。