忍ぶから偲ぶへ
朝、アスファルトの上で蝉が死んでいました。お念仏しながら土に埋めました。私が暑い暑いばかり言っていて、なかなかお念仏が出ないからここで死んでいたのかなぁ、と、蝉のなきがらを埋めながら苦笑いです。
今年のお盆は特別な感じがしました。何人かの友人の親御さんの新盆が重なりました。
亡くなった友人の新盆もありました。友人の家族が一堂に会しているのに友人がそこに居ないのが不思議な感じがしました。ですが、友人の子どもたちの仕草やふとした表情、思い出話の中に友人がよみがえり、ああ、彼女はやっぱり今ここに私と共に居てくださるのだな、と思うのです。なんとも不思議な気持ちになりました。
また、結婚して間もないのにご主人が亡くなった友人から、新盆をして欲しいと頼まれました。私自身も気になっていたので、自宅ではなくお寺に来てもらい、一緒におつとめしました。
朝、行ってらっしゃいと送り出した人が急に倒れて意識が戻らず、看病虚しく亡くなりました。蓮如さまの御文章『白骨の章』そのもので、ただただ辛いばかりで、かける言葉のみつからないまま、月日が経ってしまいました。
お盆のおつとめの間、友人の背中を見ながら友人はまだまだご主人を『忍んで』いる時期であると思いました。
『忍』は心に刃と書きます。心臓に刃が刺さっても動かぬことです。じっと耐え忍ぶ事です。意識が戻らないままご主人と別れなければならなくなり、友人の心に串が刺さったままその串が刃になってしまったのかもしれません。
医療の現場でどんなに最善を尽くしても、全ての患者さんとその家族の心の串が抜けるわけではないのです。
心の傷が癒される間もなく、通夜葬儀の段取り、終わればまた諸々の手続きが山ほどあり、深呼吸さえできないほどです。遺された者のつとめとはいえ、それはなかなかしんどいものです。
彼女の背中を見ながら、故人を『忍ぶ』から『偲ぶ』ようになるお手伝いをするのが、僧侶や寺の者のつとめであるなぁ、と思いました。くれぐれも阿弥陀さまの邪魔をせぬよう、そして新たな串を心に刺さぬよう気をつけながら、でありますが。