鬱々とした気分の今だから
新コロナウィルスの流行で、気分が鬱々としています。あの東日本大震災の時の気分に似ています。病は気からと言いますが、やはり心が晴れ晴れとしていないと、身体まで重く感じます。
鬱病でしたら、きちんと病院にかかり、しかるべき治療をせねばなりません。でも、鬱々とした状態の時、かかるべきは病院ではなく寺院なのだろうな、と思います。なるほどそうか、やはり、門徒さんは軽症患者だから通院、寺の者は重症患者だから入院しているのか、と、ある先生のお言葉が身に沁みています。
どうしても気分が沈みがちになりますから、お寺の事に差し障りない程度にウォーキングなどしています。今年は暖冬でしたから、春の花が2~3週間早く咲き出しています。2月に初夏に咲く花を見つけた時は、思わず咲く時期を間違えてないかい?と花に語りかけてしまいました。
花だけでなく草木が芽吹き育っていくのも時期が早いです。そして、いつぞやの五木寛之さん講演での『鬱』と言う字についてのお話を思い出しています。
『鬱』と言う字は、どちらかというとマイナスのイメージが強い字ですが、本来の意味は、草木が勢いよく繁るさまや、物事の盛んな状態を現す字だそうです。気分がふさぐと言う意味は2番手の意味であるそうです。何らかの影響で、溢れるエネルギーが抑制され、その為に沈んでいる状態だという事だそうです。
冬の樹々は葉が無い分、彼らの性格が現れているように見えたりします。桜はいずれ来る主役の出番がわかるかのように堂々とした枝ぶりです。木蓮は真っ直ぐ上だけを向く花を咲かせようとしていて、花は似ていてもコブシは好奇心旺盛な枝ぶり。栗の木などは、両手を上げてワハハワハハと笑っているように見えます。その樹々が花を咲かせて葉を繁らせて行く、そう、鬱々と繁らせて行くのです。
しかし、その盛んなさまも永遠ではなく、いずれまた季節が巡ってくれば葉を落としますから、確かに盛んな鬱の背後に『悒(ゆう)』の気配を含む字でもあるのですね。
鬱々とした気分の今、沢山の樹々に移りゆく自然の有様を教わり、小さな小さな花たちにたくさんの元気をわけてもらっている毎日です。