「聖教よみの聖教よまず」
「もし念仏するものは、すなはちこれ人中の好人(こうにん)なり、人中の妙好人(みょうこうにん)なり、人中の稀有人(けうにん)なり、人中の最勝人(さいしょうにん)なり」
とは善導大師(ぜんどうだいし)が著された『散善義(さんぜんぎ)』のなかにお示しくださった一文です。
今日、浄土真宗では真実の信心をいただいたお念仏の生活を送られた篤信者を「妙好人」と讃えています。
さて、江戸時代に讃岐(今の香川県)に庄松(しょうま)という方がおられました。特に決まった仕事を持たず近所の農家の手伝いやお寺で寺男のようなことをして過ごされていたそうです。文字の読み書きはできませんでしたが、仏法聴聞のなかで日々を送った生涯でありました。この庄松さんをことのほか可愛がられたのが勝覚寺の住職でした。
ある時、このことをよく思わない者が大勢の前で「このお経をよんでみよ」と庄松さんに迫りました。文字の読めないことを知ってのことでしたが庄松さんはそのお経本を大切に押し頂き「庄松をたすける、庄松をたすける、と書いてある」と申したそうです。まことに素晴らしいお領解です。
『蓮如上人御一代聞書』に「聖教よみの聖教よまずあり、聖教よまずの聖教よみあり」とあります。
私を救ってくださるための仏法だが、お聖教をただ知識として読んでも読まないことに等しい、と上人が示されています。そしてお聖教の文字を読む力はもたなくても、わたしをお救いくださる仏さまがおられ、帰るべき浄土があることを聞いてよろこぶものは、お聖教の真を読みとっているといえるのです。
世の中には「よくわからないけど、なんまんだぶ、なんまんだぶと念仏すればいいのでしょう」ということを言うひとがいます。このようなひとは「よくわからない」を振りかざして、目先のことに惑わされ、自分の考えや欲得で「念仏もする人」になっています。
真実の信心をいただくことは文字や知識だけにとらわれることでないと、遠く時代を越えて今も庄松さんが示してくれています。
ともにお念仏をよろこばせていただきましょう。