別離の時
親鸞聖人ご在世は様々なご苦労がありました。中でも、法然聖人との別離は悲しみと共にその後の親鸞聖人の人生に大きな影響を与えました。
法然聖人の導きにより多くの人々がその門弟となりお念仏による救いの教えは大きな集団になっていきました。
だれでも隔てることなく門戸が開かれていたのが専修念仏の特徴でした。
しかし、そのことに異議をとなえる他の仏教教団との軋轢が生じはじめました。
ある時、後鳥羽上皇に仕えていた女官が出家するという事件が起こりました。この女官にお念仏を勧めたのが法然聖人の門弟であったために、専修念仏停止とともに関わった四名が死罪、法然聖人以下七名が流罪という厳しい裁定が下されました。
これが「承元の法難」といわれた弾圧事件でした。
この法難により法然聖人は土佐へ、親鸞聖人は越後へと赴くこととなったのです。この時、親鸞聖人は三十五でしたがその後、法然聖人と相見えることは叶いませんでした。
いつでもお側に仕えて法を聴くことのできる幸福が突然に崩れてしまった親鸞聖人は別れてゆかねばならないそのおこころを
会者定離ありとはかねて聞きしかど きのう今日とは思はざりしを
(出会った者とは別れていくことが世の定めでありますが、それが今であったとは思いもしませんでした)
と、詠われました。
対して法然聖人は
別れゆくみちははるかにへだつとも こころは同じ花のうてなぞ
(それぞれに別れてゆく道ははるかに隔てられているけれども、共にお浄土にて会いましょう)
と詠われました。
私たちの生きておりますこの娑婆世界は突然の別離もありますし、永く病に苦しむことも避けられません。
コロナ感染の真っ只中にある今は否応なく、病気や死を意識しなければなりません。
だからこそ、往くべき道をはっきりと聞かせていただかなければならないのです。