なにをよろこぶか
元旦や 今日のいのちに遇う不思議 (木村無相)
毎年お正月を迎えると歳をひとつ重ねることになります。若いころは不思議な高揚感とともに迎えた新年ですが近年は歳の重みを感じるようになりました。
年末の掃除で昔の写真が出て来ました。椅子席ではなく座布団を敷いてのお参りの姿です。満堂の中から今にもお念仏の声が聞こえてくるようです。よく見ると、親子や夫婦でお参りくださっていた姿が多くあり、有難く、そして尊く思えました。
また、すでにお浄土にお還りになられた方々のお姿もあります。永きに渡ってお聴聞の大切さを身をもって示してくださった方々でもあります。
いのちがあるのは先祖のおかげ
くらしがあるのは社会のおかげ
よろこびのあるのは念仏のおかげ
先日、あるところで目にした標語です。
先祖はわたしの先祖だけでなく、自分の伴侶や友人にも先祖があり、その方々のいのちが大切に受け継がれてくださったことに感謝しなければなりません。
社会での生活は経済活動やお金の多少がすべてではありません。社会を築いているひとりひとりのお陰さまをこのわたしも受け取らせていただいていることを忘れてはいけません。
そして、何をよろこびとするのか。なぜお念仏することがよろこびなのか。
これは、わたしがなぜ人としてこの娑婆世界に生まれてきたのか、を問うところからはじまります。ですから、長い時間がかかる問題なのです。そして、一生をかけて聴聞するというところに繋がっています。
冒頭の木村無相さんはお念仏に出遇って多くの詩や歌を残されました。自分の愚かさを知り、その自分が救われていく道がお念仏であったことをよろこばれ、阿弥陀如来の本願をたのみ、お念仏申していく道を歩まれました。
道がある 道がある たった一つの道がある 極重悪人唯称仏
ともに本当のよろこびを分かち合いながらお念仏いたしましょう。