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田あれば田に憂へ

 人生の終盤を迎えて、身の廻りの物を整理することが流行していると聞きます。大量消費世代の方々ではなく、菓子の包装紙も大切に保管して捨てないような世代にとっては物を整理するということには大きな勇気が必要なのだろうと思います。
 そのような流行があるためなのか「お宅にある貴金属などご不要であれば是非、買い取らせてください」という電話がかかってきます。これにはカラクリがあって、価値が高いものでも安い値段をつけて強引に引き取っていく、というものです。その昔に「押し売り」というものがありましたが今のそれは「押し買い」というのだそうです。
 しかし、どんなに整理・処分しようと思ってもすべてを手放すことはできません。それどころか「これだけは何があっても失うことはできない」と思っているものが多くあることを知るのではないでしょうか。
釈尊は次のようなことをお示しくださいました。
 田あれば田に憂へ、宅あれば宅に憂ふ。牛馬六畜・奴婢・銭財・衣食・什物、またともにこれを憂ふ。思を重ね息を累みて憂念愁怖す。(中略)田なければ、また憂へて田あらんことを欲ふ。宅なければまた憂へて宅あらんことを欲ふ。(中略)たまたま一つあればまた一つ少け、これあればこれを少く。斉等にあらんと思ふ。たまたまつぶさにあらんと欲へば、すなはちまた糜散す。 『大無量寿経』下巻 注釈版聖典54頁
(田があれば田に悩み、家があれば家に悩む。牛馬などの家畜類や、金銭・財産・衣食・家財道具、さては使用人にいたるまで、あればあるにつけて憂いはつきない。…また、田がなければ田を欲しいと悩み、家がなければ家が欲しいと悩む。…なければないにつけて、またそれらを欲しいと思い悩む。たまたまひとつが得られると他のひとつが欠け、これがあればあれがないという有様で、つまりは、全てを取りそろえたいと思う。そうして、やっとこれらのものがみなそろったと思っても、それはほんの束の間で、すぐにまた消え失せてしまう)
 経典に示された通り、物に憂い、事柄に憂い、人に憂いながら生きる私たちの姿です。
 そして、そのことを知るところから仏法の扉が開かれていくことも知らなければならないのです。

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