聖人帰洛(しょうにんきらく)
昔から「一眼二足(いちがんにそく)」といわれます。衰えはまず眼に現れ、次に足が弱ってくるという順番です。
ご門徒さんは大半が私より先輩ですが、私自身も少しずつ衰えの意味がわかる年齢になってきました。
さて、親鸞聖人は20年あまりの関東での教化を終えて京都へお帰りになりました。「終えて」といっても決められた年限があったわけではありませんでしたので、どのような理由で帰洛されたのかは今日でも明らかになっておりません。『御本典(教行信証)』完成のために多くの典籍のある京都へ帰らねばならなかった、とか、関東在住の念仏信者が多くなり、為政者にとって統制を行うための念仏禁止令が出せれたため、など様々いわれています。
帰洛の時、親鸞聖人は60歳頃といわれていますから、今の私たちの80歳頃に匹敵するといわれています。その年齢で歩いて京都まで帰られたことにただ驚くばかりです。
帰洛の一行はやがて「箱根の山は天下の険」とうたわれた峠に差しかかります。今日「笈の平」とよばれる場所で随行してきた性信房に親鸞聖人は「どうか関東に残って門弟の教化をお願いしたい」という旨を告げられたといいます。突然のことに性信房も戸惑ったに違いありません。その別れに際して聖人は背負ってきた笈を性信房に手渡されました。その笈の中には『教行信証』の草稿本が蔵されていたといわれています。
今日、別れの気持ちが現地の歌碑に残されています。
病む子をば
預けて帰る旅の空
心はここに
残りこそすれ
関東に残してきた門弟にはまだまだ伝えたいことがある中で京都へ帰らなければならないのはまさに後ろ髪を引かれる思いだったに違いありません。
また、たった今登ってきた道を降りなければならなかった性信房は涙にくれていたことでしょう。
親鸞聖人が一番信頼していた性信房はその後、関東に残されたたくさんの門弟に聖人のお心を伝え続けました。
親鸞聖人から託された『教行信証』草稿本が数々の災禍を逃れて今も大切に残されていることを心から歓びたいと思います。