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救済(すくい)に目覚めよ

 歳を重ねて参りますと色々と不具合が出てきます。小さい文字が見えなくなってエアコンのリモコンの文字が冷房なのか暖房なのかがわからない、と言います。夏に間違って暖房にしたら大変だから暑くてもエアコンは使わない、という方がいます。お年寄りのなかに頑なにエアコンを使わない理由が眼がよく見えないからという笑えない話です。
 「老い」は私たちに様々な形で迫ってきます。私を取り巻く事柄が不具合の多重奏となるのですから心地よいことではありません。
 さて、日常のなかで身体が不調になれば誰もが病院のお世話になります。その病院は病気を治すことを目的にしていますので、快復が望めないとなると少し方針が変わってきます。「治る人」「治せる人」が優先されるのです。私たちは誰でも「治る人」だと思って病院に行きますが「治らない人」「治せない人」であるかもしれません。
 そうなると様々なことが頭を駆け巡ります。家族や仕事の心配、やり残したことへの未練、弱りゆく身体の心細さ、そして死に対する恐怖。特に「死んだらどうなるのか」を思わない人はないでしょう。皆さんはいかがでしょうか。「自分は互助会に入っているし、お墓もあるから大丈夫」という人もこの娑婆世界を終えた後どうなるかが判らなければ本当の大丈夫にはなりません。
 阿弥陀如来の本願は「大丈夫だよ」と呼びかけ続ける救済(すくい)の手立てです。
 まさに「老い」はこの救済に目覚めるときなのです。

(大無量寿経 第十八願)
たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。

(意訳)
わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます。

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