往生極楽の道
親鸞聖人が関東の地をあとにされ、京都にお帰りになられてからも幾度となく門弟たちは親鸞聖人をお訪ねになりました。
「歎異抄」第2条には
「おのおの十余か国のさかいをこえて、身命をかえりみずして、たずねきたらしめたまう御ここざし、ひとえに往生極楽のみちをといきかんがためなり」
とあります。
門弟方が遠路はるばる、命がけで京都までおいでになったのは往生極楽のみちをもう一度はっきりと聞くためであった、と記されています。鉄道や自動車のない時代ですから、歩いて行くしかない旅路です。「身命をかえりみずして」とありますが決して大袈裟ではなかったのです。
さて、最近は諸事情のためにリモート会議なるものが多くなってきました。ひとつ場所に集まって議案を審議するのが会議の基本ですが、集まることなしに行うのがリモート会議です。 確かに相手の顔も映るし声も聞こえてきますが実際に会って話すより伝わり方が弱いように感じます。ですから、本当に真意を伝えるためには対面して話すことが大切です。
親鸞聖人の門弟方が京都までお訪ねになったのは往生極楽のみちを聞きたかったことは間違いないでしょう。それに加えてわが師に会って直接聞かせていただきたかったのでしょう。
しかし、この方々は親鸞聖人が関東におられた時には何度もお念仏によって往生極楽の道が定まっていることを聞き続けたひと達であったことを思うと知らないことを聞こうとされたのではないと思います。
仏法を聴聞して一番に聞かなければならないのがこの私です。それと同時にこの私が仏法の邪魔をしているのです。「私は」「私が」「私の」というように常に私のまわりには「私」が渦巻いています。娑婆世界を生きていくということは「私」抜きにすることは困難です。その私が如来さまの仰せになる通りに「こころから浄土に生まれたいと願いお念仏申されよ」の声を素直に受け入れるには「私」が邪魔になることをまず理解しなければなりません。それは大変難しいことでもあります。
お念仏ひとつで往生の道が定まることの難しさを聖人から幾重にも聞かせていただきたかった門弟方の胸の内はよくわかります。
そして、とにかく如来に等しい親鸞聖人に会いたかったのだろうと私は思います。