ひとりの僧侶
スポーツ選手の現役引退の理由は全盛期の力量が発揮できないか、期待されていた成績が残せないかによります。種目は違っても常に数字で比較される厳しい世界です。どれだけ頑張ったか、どれだけ真摯に向き合ったかはとても大切なことですが成績という数字が伴わなければ選手としての評価は厳しいものになります。
さて、私たちも長年任されてきた住職を退く日が参ります。こちらはスポーツ選手とは違いますので、成績や数字での評価はありません。あえて申すならば、気力と体力の衰えでしょうか。住職の仕事はお経をあげているだけではありません。み教えを多くの方々や門信徒に伝えていくことは勿論ですが、経営的なことや後継者育成も考えなければいけません。休んでいても休みのない毎日です。そのようなことを日々行う気力や体力がなくなってきたと感じるとき、引退を決意するのかもしれません。昔は生涯現役の住職方がたくさんありましたが、昨今は比較的早めに次代に継職される住職も増えてきました。
しかし、私の知るかぎり住職を辞めても僧侶を辞める人はいません。私はいつも職業欄に記入を求められるときに「僧侶」と記しながら「僧侶は職業なのかな」と思います。私の中では住職は役柄で僧侶は生きる姿であると考えています。では僧侶として生きる姿とはなにか、といえば「求道」の姿です。私たち真宗僧侶は念仏によって救われる道を生涯をかけて歩み続け、実践すること以外にはありません。
かつて親鸞聖人は承元の法難によって僧籍を剥奪され、「僧にあらず、俗にあらず」という道を歩まれました。今日私にはその険しい道のりと同じ歩みは到底及ぶことはかないません。しかし、遠くあっても仰ぎ見ることは出来そうです。やがて職を離れて、ひとりの僧侶としてどのような求道のあゆみが出来るのか今からたのしみにしたいと思います。