氷と水

 先日、横須賀港で南極観測船「しらせ」を見る機会がありました。南極の昭和基地まで観測隊員と様々な物資を運ぶ船です。この船の重要な任務は砕氷です。氷に閉ざされた南氷洋を船ごと体当たりして前に進むのです。
 毎年11月に出港して1か月半ほどかけて南極にたどり着くそうですが、船体は傷ついてぼろぼろになるといいます。
 さて、私たちの一生は人それぞれです。平穏無事を願って、何事もなく、心を乱すこともなく、身体極めて良好で何の苦しみもなく一生を終えることのできる人はいません。それどころか、私を取り巻くすべてのことが苦しみの種であることを実感せざるを得ないのです。その苦しみの種こそが私の煩悩なのですが自覚なく日々を送っています。
 親鸞聖人はご和讃に

罪障功徳の体となる
こおりとみづのごとくにて
こおりおおきにみづおおし
さわりおおきに徳おおし
『高僧和讃』「曇鸞讃」

とお示しくださいました。
<罪や障りが覚りのもとである。氷と水の関係のなかで、氷が多ければ水も多いように、障りが多ければ、覚りの徳も多いのである>
「罪」とは煩悩がもたらす悪なる行いであり「障り」とは覚りに向かう障害のことです。
 苦しみの種をたくさん持って、その種が煩悩の花を咲かせて実を結んでいる私の姿は覚りの方向とは逆であります。このように煩悩の多い者は覚りの世界に生まれることはできない、と断じられるところです。
しかし、煩悩が多いことは覚りの徳も多いと示されています。
 そこに阿弥陀さまの救済の働きがあることを有難く頂戴するばかりです。
 まさに南極の厚い氷に我が身を体当たりして砕きながら、前進してゆく船のごとくではないでしょうか。
 この船こそが阿弥陀さまのお徳によるものなのです。

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