無明の闇
最近、諸々の原因によって電気料金の値上げが私たちの生活を直撃しています。値上げがあっても真っ暗のなかで生活することもできません。それどころか、街のなかでも家のなかでもたくさんの光が輝いています。ですから、眼を閉じない限り漆黒の闇のなかに身をおくことはほとんどありません。
さて、長野善光寺には有名な「戒壇巡り」があります。戒壇巡りの解説には「戒壇めぐりとは、狭くて暗い場所を通り抜けることによって穢れが祓われて生まれ変わるという修行のこと。 暗所の道をたどることによって人間の心身を清め菩薩に導かれて必ず極楽へ往生することが出来ると言われている」とあります。穢れが祓われるかどうかは実感できなくても、その場所は「絶対的漆黒の闇」であることに異論はありません。「暗い」ということを思うとき、いつもこの戒壇巡りの闇を思い出してしまいます。そして手すりに導かれて出口が近づくにつれ光が差し込んできたときの安堵感に不思議な気持ちになります。つまりこれは明るさを実感するための闇なのだと思わずにはおれません。
親鸞聖人は、『教行信証』の総序の文に「無碍の光明は無明の闇を破する慧日なり」(何ものにもさまたげられない阿弥陀さまの光明は、迷いの根源である無明の闇を破る、太陽そのものである)と示されました。
「無明」とは煩悩にとらわれて仏法の導きが私に届かないことを言います。その私に阿弥陀さまの救いの光は大いなる安堵とともに喜びとして届けてくださったのです。その光が届いたならば、どれだけ長い間、闇に閉ざされていても一瞬にして闇は去ってしまうのです。
無明の闇を破するゆゑ
智慧光仏となづけたり
一切諸仏 三乗衆
ともに嘆誉したまへり
『浄土和讃』
(阿弥陀仏の光明は、衆生の疑いを破って信心の智慧を起こさせてくださるから智慧光仏と名づけられる。すべての仏たちや声聞・縁覚・菩薩の三乗も、ともどもに阿弥陀仏をほめ讃えないものはない)