定期健診
最近、歯科医院通いがはじまりました。半年に一度、歯の定期健診の案内を戴いておりましたが、特に気になるところもありませんでしたので、通院せずに過ごしておりました。しかし、奥歯が少し痛くなりはじめました。すると歯の事ばかりが気になる日々を過ごし、「もう少し我慢できるかな」などと構えているうちに遂に痛みの限界を迎えました。頭の中には診療早々に「なんでこんなに悪くなるまで放っておいたんですか」という叱責に近い先生の顔が見え隠れし続けました。歯医者さんの好きな人はいないと思いますが(筆者主観)それは、痛くなって治療の苦痛に耐えなければならないことを想像するからに違いありません。
さて、仏法聴聞は聞けば聞くほど楽しくなる、というものではないかもしれません。仏教という知らない世界を俯瞰しながら聞いているときは興味も手伝って「おう、なるほど」と楽しさも感じるものです。それが、だんだんと私自身の内面に向かって発せられている「問い」であることに気付きはじめる時に初めて「私」と向き合うことになるのです。そのとき、私の心の姿はどのように映ったでしょうか。学歴も仕事も地位も名誉も関与しない「私」と対峙するのです。
『末燈鈔』に親鸞聖人のおことばとして
故法然聖人は、「浄土宗のひとは愚者になりて往生す」と候いしことを、たしかにうけたまわり候いし
(今は亡き法然聖人が「浄土の教えに生きる人は愚者になって往生するのです」と言われたことを確かにお聞きしました)
と示されています。
「愚者」とは教養の有無のことではありません。人間の根源的な愚かさは皆が持っているということなのです。冷静沈着に見えても、感情に流されたり、わが子のことになると人が違ったようになるなど、日頃は見せることのない内面には「愚なる私」がいることを示されているのです。
阿弥陀さまの救いは「そのままの私」を救いとる手だてですから、救われる側の私は何も飾ることを必要としません。愚者のままでよいのです。
仏法聴聞は本来の私の内面に目を向けるための定期健診です。痛みの出る前に是非、続けてください。