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一番若いとき

 この度、築地本願寺での令和五年報恩講が無事お勤まりになりました。遠近各地より大勢の方々が参拝され、親鸞聖人のご遺徳を偲ぶご法縁を結ばせていただいたことでした。この法要中には多くの外国人旅行者の方の姿を目にしました。おそらくは築地本願寺の建物としての興味や見たことのない内陣のお荘厳を「デザイン」として楽しんでいる様子でした。それでも自国に帰って「シンラン」や「ジョウドシンシュウ」を思い返していただけたら有難いと思います。
 さて、この法要に前門主さまがご出座になりました。コロナ感染の懸念などから四年振りのことです。法要がはじまり余間で控えておりますと、ゆっくり前門さまが内陣にお出ましになられました。手に杖を持たれ、小さな歩幅で慎重に進まれています。祖師前(親鸞聖人ご絵像前)ではゆっくりとそして丁寧にお焼香され合掌礼拝なさいました。正直申しますと以前のお姿とは違って少し痛々しい印象に驚きを隠せませんでした。このご様子で京都から東京までお越しくださったことにも驚きました。
 しかし、なぜお越しくださったのかを考えてみました。お釈迦様は「生老病死」を「苦しみ」としてお説きくださいました。私たちは苦しみを素直に受け入れることはできません。それどころか苦しみを否定して、苦しいことに抗い、排除しようとしています。しかし、その願いは虚しいものとなるのです。受け入れたくなくても受け入れなければならないのがこの「生老病死」なのです。
 前門さまは、その中の「老い」の姿を多くの方の前にお示しくださるためにお出ましになられたのだ、と気付いたときに大変尊い思いに満たされました。
 この私が日々生かされている中で一番若いときは今なのだと気付けることは素晴らしいことです。
 親鸞聖人のご和讃「南無阿弥陀仏をとなふればこの世の利益きはもなし 流転輪廻のつみきえて定業中夭のぞこりぬ」(南無阿弥陀仏の名号の心をいただいて念仏を称える身になれば、この世において得られる利益は限りがありません。迷いの世界に生死を繰り返し続ける原因である罪も消え、定まっている寿命をまっとうして悔いの残らない人生を終えることができます)を深く味わいたいと思います。

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