私の旅路

 新幹線に乗ると当たり前の景色のようになっていた車内販売が幕を閉じました。しばらく前に食堂車が無くなったときにも大変寂しい思いをしました。このたび車内販売も姿を消してしまいましたので昔の旅の風情がなくなってしまったと感じるのは私だけではないと思います。
 さて、自分の人生を旅に例えると今どの辺を歩んでいるのでしょうか。前途洋々なる思いの日々もあり、難題に直面して立往生したこともあったかもしれません。その健やかなる心身も次第に衰え、背負っている荷物が重く感じられることはありませんか。
 自らの人生を「価値」として考えてみたとき、今まで出来たことが出来なくなると、私の日々の「価値」が下がったと感じるでしょう。ましてや病気になったり家族に身の回りの世話をしてもらう身になると生きている「価値」が無いとさえ思ってしまいます。
 それでは、私の人生の「意味」はどこにあるのでしょうか。「価値」を基準にして「意味」を考えても価値観の延長から脱することはできません。

 引く足も
 称える口も
 拝む手も
 弥陀願力の
 不思議なりけり

これは第十四代宗主である寂如上人が詠われたものです。
(聴聞にお参する足のはたらきも、なんまんだぶと称える口のはたらきも、阿弥陀さまに合掌礼拝する手のはたらきも、現に私の身の上に本願力がはたらいて下さってある相(すがた)なのです。その私の上にはたらいている力が、私を浄土に往生させる阿弥陀仏の本願力であったのである)
 阿弥陀さまの願いを聞き受けてお念仏させていただくことをよろこびとさせていただく人生にこそ深い意味があったのです。その真実の「意味」を頂戴することが阿弥陀さまにお育てをいただいている私の旅路なのです。

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