鍛え研がれたもの
先日、ある博物館で貴重な刀剣を見る機会がありました。その形と輝きは刃物としての存在を超えているように感じました。
遥か昔の弥生時代には日本に刀が存在していたと聞いて大いに驚きました。
日本の歴史の中では刀は武器としてのみならず、神格化した存在でもあったようです。
さて、刀は砂鉄をたたらで三日間熱して玉鋼を作り、その玉鋼をさらに熱して金づちで打って鍛えていくという方法でのみ作ることができるのだそうです。昔ながらのたたら製鉄法が欠かせません。
こうして作られた刀もそれを研ぐことができなかったら刃物として完成しません。
日本には世界にも類を見ない高品質の砥石が各地で産出されています。
砥石は、数千キロ離れた赤道付近の海底の沈殿物が、数億年掛かって日本へ移動して地上に隆起したものなのだそうです。どんなに優れた刃物でも、砥石が悪ければ刃物の機能は最大限に発揮出来ないため、優れた砥石を入手することは、職人にとって重要なことです。優れたな砥石を活かした「刃を研ぐ」文化が構築されて、長きに渡り継承されてきたことは日本文化の宝ではないでしょうか。
さて、この私の本質を考えたとき、貪欲、瞋恚、愚痴の煩悩を抱えた存在でしかありません。思うままに自由に生きていくことはこの煩悩を最大に稼働していくことになるのです。
しかし、社会においては自分だけの思いで生きていくことはできませんので、法や秩序などを身につけ、あらゆることに対処できるように育てていただくのです。この鍛え方の如何によって人生の進み方が変わっていきます。
そして、この私を研ぎだして心に輝きを与えてくれるのが仏さまとの出会いなのだと思います。
お念仏を大切にされている方にはこの輝きがあります。至高の砥石で研ぎすまされた姿はよろこびの輝きを放っています。
これからも鍛え研ぎ続けて行きたいと思います。