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自名告(じみょうごう)

 今年から土曜法座で『歎異抄』の講読を始めました。今から20年以上前に連続講義をして以来です。
 その時に「時間が経てば味わいが変わりますのでいずれまた再開しましょう」と言って終講しました。
 さて、読み進めて行く中で所々考えることがあります。「これは親鸞聖人のことばではあるけれども、親鸞聖人が書かれたものではない」ということです。ご存じのように『歎異抄』はそのお弟子の唯円が親鸞聖人がお亡くなりになった後に著わされた書物といわれています。長い間、親鸞聖人のお側で聴聞されていたからこそ、臨場感をもって著わすことができたのです。
 第二条には、
「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひとの仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり」
とあり、ここに「親鸞におきては」と自身の名を示されています。これは「自名告(じみょうごう)」といって当時の方々の習慣です。自名告とは自らの名を会話や著書の中で名のりを告げることです。『教行信証』の中にも「ここに愚禿釈の親鸞」などと著わされています。なかでも『歎異抄』には八箇所にもわたって自名告が登場します。このように「親鸞」と示すことができるのは、ご本人の著作か法話記録です。『歎異抄』は親鸞聖人の著作ではありませんので、聖人の法話を記録したものであったことがわかります。
 『歎異抄』を編纂するにあたって唯円はそれらの記録を何度も読み返したことでしょう。そのたびに親鸞聖人のお声が蘇って万感胸に詰まり、涙されたのではないでしょうか。
 後序に
「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞 一人がためなりけり。されば、それほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」
(阿弥陀如来の五劫という長い間、思惟して御建てになった本願をよくよく思案すれば、ひとえにこの親鸞一人の為でありました。さればそれほど深い業を持っているこの身を、必ず助けようと立ち上がりたまう本願のかたじけなさよ)
 親鸞聖人のお声が今も響いています。

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