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視わす(みそなわす)

 先日、久しぶりに飛行機に乗る機会がありました。眼下に広がる湘南の海岸線は地図で見るのと同じ形の景色で江の島がミニチュアのようでした。あっという間に箱根を越えて雪景色の富士山が神々しく輝いていました。
 そのときに「見ることは出来ないけれども、この景色の中のどこかに私のお寺もあるのだな」と漠然と思いました。高い空の上からは大きな景色しか見えないのが私の限界です。ひとつひとつをつぶさに詳細に見ることはできません。
 その高い場所から全体も個々の姿をもご覧になることができるのが、阿弥陀如来のおはたらきです。
 親鸞聖人は浄土和讃に
  十方微塵世界の
  念仏の衆生を
  みそなわし
  摂取してすてざれば
  阿弥陀となづけたてまつる
「十方の数限りない世界にいる、お念仏する人々をご覧になって、摂収して捨てないので、阿弥陀とお呼び申し上げる」とお示しくださいました。
 このご和讃は『観無量寿経』の中の「光明あまねく十方世界の念仏の衆生を照らし摂取して捨てず」が出拠となっています。「衆生を照らす」が「みそなわす」という意味になるのです。
「みそなわす」を漢字にすると「視わす」と表されています。
「みる」という漢字には「見」「観」「視」などありますが、「見」は光景が目に入ってくるということで受動的であり、「観」は意識して物を見るということで能動的です。
 さらに「視」には「視界」「視線」「凝視」など私たちの見ることの能力やその姿が表されますが、その意味には「仰ぎみる」「察する」などが示されています。
 阿弥陀如来から「みそなわされている」私たちはいつでも、どこでも照らされ救い取られているのです。そしてこの身は、決して見捨てられることがないことを一層に喜ばせていただきましょう。

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