灯の中に
記録によると古代の中近東ではエジプトを中心として約5000年前からオリーブが栽培されていました。その用途は灯火用の油として、腐敗防止の香料として、また食用として重宝されました。
日本では天武天皇の白鳳年中 (673~686年)に河原寺で燃灯供養(多くの火を燃やし 仏を供養する行事)が行われた、と『日本書紀』に記されています。
このような行事には木実の油が使われたと推定されていて、「油」が「灯」として生活のなかにあったことがわかります。
最近はお内陣の輪灯を油で灯されているお寺も少なくなりましたが、教念寺では今も油を使って灯させていただいています。その油を定期的にご寄贈くださるご門徒さんがあり、誠に有難いことです。
真っ暗な内陣に灯りが灯されると、それまで姿が見えなかった阿弥陀さまが現れます。暗いときにもそこにお立ちくださっていたのですが、私の眼で見ることができなかったのです。
真っ暗なことを「闇」と申しますがこれはこの私が煩悩の中にいる姿なのです。この「闇」は灯りが灯された瞬間に「闇」ではなくなります。阿弥陀如来のはたらきは煩悩の中にある私を救い導く光なのです。この光を有難いこと、と受け取ることができるのは自分が「闇」の中の存在であることを知らなくてはなりません。「私」「自分」「俺」の中でしか考えることのできない存在だったのです。
無明長夜の灯炬なり
智眼くらしとかなしむな
生死大海の船筏なり
罪障おもしとなげかざれ
親鸞聖人『正像末和讃』
(阿弥陀如来の本願は、煩悩にまみれ迷いを深める悪い行いしかできないような者をこそ、必ず救おうとされるはたらきです。その必らず救うというはたらきにすでに出遇っているのですから、智慧の眼が開けないから証ることができないと悲しんだり、浄土往生の障りとなる悪業が深いから救われないと嘆くことはない)
私は「灯」の中にあり、光はすでに届いていたのでした。