未完に思う

 先日、今年の米国野球殿堂入りメンバーの発表がありました。この度長らくアメリカで活躍し、記憶にも記録にも残るイチロー氏が日本人選手として初めて選出されました。米国野球殿堂の選出は「選手としてメジャーで10年以上プレーし、最後にプレーしてから5年以上経過した選手」が対象で「全米野球記者協会に在籍10年以上の記者が成績、品格、チームへの貢献度などを考慮して投票し、75%以上得票を得ること」がその条件となっています。ですから、相当高いハードルであることがわかります。このハードルを見事越えてイチロー氏が選出されたことは大変喜ばしいことです。
 さらに、注目されたのが満票で選出されるかという点でしたが、わずか1票足りず野手として初の満票選出にはなりませんでした。
 このことについてイチロー氏は「1票足りないというのは、凄く良かったと思います。人は自分なりの完璧を追い求めて進んでいくのが人生だと思うんです。不完全であるというのはいいなって。生きていく上で不完全だから進もうとできるわけです。そこに向き合えるのは良かったなと思います」と話しました。独特の感性に基づく一流の人にしか語れないことばだと感服しました。
 さて、比叡山での荒行である千日回峰行をご存知の方もあると思います。「比叡山中の無動寺での勤行のあと、深夜2時に出発する。真言を唱えながら東塔、西塔、横川、日吉大社と260箇所を礼拝しながら、約30kmを6時間余りで巡拝する」という荒行を7年間かけて行います。連続した千日間でないところにも、違った難しさが存在します。実際に行を行っていない時間も常に自己との葛藤が止むことがないからです。
 この行は975日をもって満行となります。千日間行っていないので満行しても満行ではない未完の行なのです。まだ、やり遂げていない行は一生をかけて修行し続ける、と言います。人間の奥底にある慢心の心を戒める行でもあったのです。
 足りないことをどのようにとらえるか、私たちにも問われているのではないでしょうか。

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