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似て非なる姿

 若い頃に人前で法話することに大変苦労しました。どんなに一生懸命お話ししてもその真意を伝えることができずにもどかしい思いばかりでした。
 ある時、高名な布教使のお話しをそのまま話したことがありました。結果は惨憺たるものでした。それもそのはずで、話し手である私自身が何を伝えたいのかが不透明でした。
 それから、「この話しの結論はこれです」と先に話しの肝要を示してから進めるようにしました。推理小説ならば、犯人が先に判ってしまうのですから読み進める興味は半減してしまうでしょう。 しかし、法話は聞きたいことだけが判明すれば良いものではありません。聞いていくうちに興味が深まり、さらに自らに呼応していくことによって、仏さまの深い慈悲の世界を味わうことができるのです。
 ところが、これには条件があるのです。仏さまに深く頭の下がるこころをお持ちの方であることです。小さい時からお寺に連れていってもらって何だかわからないけれど、お話しを聞いたことや、おじいちゃんやおばあちゃんと一緒にお仏壇にお参りしたことなど、すべて大切なことです。それを「お育て」と言います。
 さて、今日そのように育てられた方が激減しています。お育てを受ける場がなくなっていると言えばそれまでですが、これは本当に問題なのです。
 お寺での法話会でも「カルチャー的」な企画は興味が高いようです。私自身が私の知識において納得を得たいのです。大いに理解できます。
 しかし、興味がなくなったらどうでしょう。
 仏法を聴聞する(法話を聞くこと)ことは、この私を問題にしていることに気付くことではないでしょうか。
 仏法に育てられ、そのことをよろこべることは「仏さまに頭の下がる」ものに育てていただいたからです。
 自らの都合で「仏さまに頭を下げる」こととは似て非なる姿なのです。

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