口に世事をまじえず
一滴の血液で13種類の癌が発見できる、というニュースに驚きました。その精度は99%で、近年中に実用化されるということですから私たちの日常にも大きな変革がもたらされることになるでしょう。
しかし、私たちの生命が永遠になるわけではありません。より一層に「生きる」ということの意味を問う時代を迎えているとも考えられるのではないでしょうか。
釈尊は「人はなぜ死を迎えなければならないのか」の問いに「生まれたからである」とお答えになっています。「生」を受けたその時から「死」は偶然ではなく必然であり、その時は「いま、このとき」であっても不思議ではないことを知るべきであると示されたのでした。
親鸞聖人は様々なご縁の中で師である法然聖人に出遭われ、お念仏こそ阿弥陀如来が願われた救いの道であることに無限のよろこびを身に受けた日暮しをされました。
そして90年のご生涯を閉じられようとされるとき
「口に世事をまじえず、ただ仏恩のふかきことをのぶ。声に余言をあらわさず、もっぱら称名たゆることなし」
(世間のことはお話しされず、ただ阿弥陀さまのお救いのおこころ深きことだけを話されました。そして、お念仏だけをたゆみなく重ねておられました)と、ご臨終近いご様子が『御伝鈔』に記されています。
亡くなるその時にだけお念仏が出たのではありません。自分が今日まで生きて来られたすべてがこの「お念仏」に遇うためであったのだ、とよろこばれている姿だったのです。
今日の「生」にばかりこだわり「老・病・死」からひたすら遠ざかることを尊しとする限り真実の世界に出遭うことはできません。
自由の利かなくなる身体を携えながら「生かされてきたこと」の意味を考える時が「老」の姿なのかもしれません。
はたして、臨終を迎えるそのときにこの口から何が出るのでしょうか。