揺らぐことのない一番
「あなたにとって一番大切なものは何ですか」と問われたら、何とお答えになりますか。「いのち」や「健康」でしょうか。「家族」「仕事」「お金」「財産」「友人」「趣味」「思い出」等など、大切なものはたくさんありそうです。
しかし、「一番は何?」というと思案するところです。それは、その時々で順番が変わるからです。病気の時には健康が一番になりますし、なりふり構わず仕事に邁進している時は仕事が一番です。心から心配してくれる友人の優しさに出会えば友人こそ一番であると思うでしょう。つまり、一番は二番や三番があってこその一番であり、二番や三番もいつでも一番に代わることができるということです。
さて、親鸞聖人にとっての一番はなんだったのでしょう。それは法然聖人に出遭うことができたことにはじまります。
親鸞聖人の門弟が関東から京都に来られた時にお念仏のお救いについて問われた聖人は「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし」とお答えになり「よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細(しさい)なきなり。念仏は、まことに浄土に生まるるたねにてやはんべるらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるなり。たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ。」 (『歎異抄第二条』)
法然聖人に騙されて地獄に落ちても後悔することはありません、と言われているのです。
人が浄土に往生することの難しさを誰よりもご存じであった親鸞聖人であったからこそ、法然聖人に導かれた浄土への道を確かなものと歓ぶことができたのでした。歩むべき自分の姿に出遭うことができたとも言えるでしょう。
お念仏こそ揺らぐことのない一番大切なものであったのです。
娑婆の世にあって、揺らぐことのない一番に出遭えることはこの上ない幸せなのです。