蓮如上人御一代記聞書19
「心を責めよ」
あるとき、蓮如上人はこうおっしゃったよ。
わが心にまかせずして心を責めよ
つまり、自分の心のおもむくままにするのではなく、心を引き締めなければならないぞ、とね。
浄土真宗の教えは、「悪人正機」といって、悪人を目当てに説かれた教えだったね。他宗のように善人になる必要はなく、なろうと努力する必要もない。法話などでも「このままのお救いです」と説かれているし、ついつい「このままでいいんだな」って安心してしまいがちだよね。でも、本当にそれでいいの?って疑問を投げかけているのが、このお言葉なんだ。
このままでいいわけはないね。なぜかといえば、善いことひとつもしないで悪いことし放題の僕たちは、このままだと地獄行きだから。「お前、このままじゃ地獄に落ちるぞ」と阿弥陀さまから指差されているのが僕たちの姿なんだ。厳しい因果の道理があるから、阿弥陀様といえどもこのままで僕たちを救うことはできないんだよ。
だから、阿弥陀さまは僕たちにかわって厳しい修行をし、その功徳のかたまり、南無阿弥陀仏の名号を届けてくださった。この名号ひとつで私の浄土に生まれさせ、仏にしてみせるぞと誓ってくださっているんだ。それを聞くと、心のままに、つまり煩悩の起こるままに無反省に生きていることは、もったいないことと思えてくるね。
蓮如上人は続けて
仏法は心のつまる物かとおもへば、信心に御なぐさみ候ふ
とおっしゃってる。「心を責めよ」と聞くと、窮屈な感じに思う人もいるかもしれないけど、阿弥陀さまからいただいた信心によって、心のなごむものだと教えてくださってるのさ。
さっき、阿弥陀様に僕たちの姿を指差されているといったけど、それは冷たい指差しじゃない。どうか自分の姿をわかってくれよ、お前を落としたくないんだと、涙を流して叫ばれているの。手をあげて僕たちを招いてくださるお姿は、命をかけた阿弥陀様の叫びなんだ。それを思うなら、こちら側も鬼の目にも涙、心なぐさめられて生きる道が開かれていくんだよ。