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蓮如上人御一代記聞書34
「いさみの念仏」

念仏称えるとき、みんなはどんな気持ちで称えているかな。蓮如上人は、報恩講で読まれる「報恩講私記」っていう聖教のご文をひかれて、

「憶念称名いさみありて」(報恩講私記)とは、称名はいさみの念仏なり。信のうへはうれしくいさみて申す念仏なり。

とおっしゃった。称名は、阿弥陀様のお名前、「南無阿弥陀仏」の名号を称えることだね。そして「いさむ」というのは、心に力がわいて、はりきってという意味のことば。つまり、南無阿弥陀仏の名号は、喜びいさんで称えるものですよと教えてくださってるの。
そういわれても、じゃあ何を喜べばいいんですか?ってことになるよね。ただの念仏をどう喜べるの?何がうれしいの?って。そこで見てほしいのが、2文目の「信のうへは」という言葉なんだ。喜んだりうれしかったりするのは、信のうへ、信心いただいた上でのことだとおっしゃってる。
阿弥陀様は、「我が名を称える者を、必ず救わずにはおかない」とお誓いくださった。その誓いを、「若不生者の誓い」と言うよ。
「もし生れずは、正覚を取らじ」つまり、「我が名を称える者が我が仏国土(お浄土)に生まれることができないなら、仏にはなりません」と誓ってくださっているわけ。そしてその願いは僕たち一人ひとりにかけられていて、実はその願いの中で僕たちは生きているんだ。
その誓いを、ああ私のための誓いでしたか、この私という悪凡夫を仏にするために願いをかけ、ご苦労くださったのですかといただけたとき、心には喜びがわいてきて、いさみの念仏が口をついてくるんだ。
阿弥陀様の願いは、いつも自分にかけられている。そのことを忘れないのが「憶念」ということ。親鸞聖人がご和讃に

憶念の心つねにして
仏恩報ずるおもいあり

と説かれた信心の人の心境なんだよ。

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