蓮如上人御一代記聞書39
「別義なく候ふ」
蓮如上人の息子の本願寺第九代門主の実如上人のこんなお言葉が「蓮如上人御一代記聞書」残されているよ。
前々住(蓮如)より御相続の義は別義なきなり。ただ弥陀たのむ一念の義よりほかは別義なく候ふ。これよりほか御存知なく候ふ。
つまり、「わたしが蓮如上人より承ったことに、特別な教えがあるわけではない。ただ阿弥陀如来におまかせする信心、これ一つであって、他に特別な教えはないのである」といい、続けて「この他に知っていることは何もない」とまで仰ったんだ。
この話で思い当たるのが、親鸞聖人の息子の善鸞様の事件。善鸞様は親鸞聖人の名代として関東に出向いていた時に「今説かれている阿弥陀仏の本願は本当の教えではない。私は父親鸞から夜中にこっそり本当の教えを聞いた」と言ってまったく違う教えを説き、関東の教団を混乱に陥れたよ。後にそれを知った親鸞聖人は、泣く泣く親子の縁を切られるしかなかった。実に痛ましい事件が起こったんだ。
まったく違う教えを説いた善鸞様はもちろん問題だけど、そこには「こんな簡単なことで救われるわけがない、もっと奥深い教えがあるんじゃないか」って期待する門信徒の心もあって、見方をかえるとその心が善鸞様の事件を引き起こしたとも思えるんだ。
浄土真宗の法話ではいろいろなことが説かれているけど、肝心かなめは「阿弥陀如来におまかせする信心をいただく」ということ。極端にいえば、このことひとつを説きたいためにすべての法話があり、すべての法話はこの「信心をいただく」ことに集約されていく。
でもこれ、あまりに簡単すぎるから、「え?それだけなの?もっとほかに大事なことがあるんじゃないの?」って思っちゃうわけ。奥深い教えがあるんじゃないかってね。でも残念ながらそんな教えはないの。浄土真宗の教えには裏も表もなく「信心いただく」ことひとつが大切なんだよ。