蓮如上人御一代記聞書40
「しれるところを問へ」
本願寺第三代門主の覚如上人、そのお子様に、存覚上人という方がいらっしゃった。この存覚上人の記された「浄土見聞集(じょうどけんもんしゅう)」という書物に、こんな言葉が記されているよ。
日ごろしれるところを善知識にあひて問へば徳分あるなり
日ごろからよく心得ていることでも、よき師にあって尋ねるとまた得るところがあるということだけど、このことについて蓮如上人は、
しれるところを問へば徳分あるといへるが殊勝のことばなり
「この『よく心得ていることを尋ねると、得るところがある』というのが、まことに尊いお言葉なのである」とおっしゃった。
僕たちは何かを学ぶとき、新しいことを求めているよね。知らないことを聞くと、そうだったのかと喜び、知っていることを聞くと、そんなこと知ってるよとつまらなく思う。でも仏法を学ぶことにおいては、そうじゃない。知らないことを知って物知りになることには何の意味もないの。知っていることを何度も何度もくりかえし聞いて、我が事として教えをいただくことが尊いことなんだ。
「念仏成仏これ真宗」といって、浄土真宗の教えは「南無阿弥陀仏」の念仏一つで仏になる教えだね。そんなことは誰でも知っていると思うけど、本当に知っているかな。心の底からそのとおりだと思っているかな。知ってるつもりになっているだけじゃないのかな。
善知識とは、何かを教えてくれる単なる先生という意味じゃなく、我が身をかけて教えを聞いて、その教えを心の底にいただいて生きている人なの。そういう人に知ってることを聞くと、まったく違う味わいを聞かせてもらうことがある。同じ言葉でも、生きてはたらいていることがわかるんだ。
浄土真宗は聴聞が大事というけれど、何もお坊さんの話を聞くばかりが聴聞じゃあない。生きてはたらく阿弥陀様の願いを、しっかり聞かせてもらおうね。