蓮如上人御一代記聞書48
「六字の名号」
南無阿弥陀仏の念仏は、この上なくすばらしい善根功徳をそなえたものだから、他宗では、この名号を称えてその功徳を仏や菩薩に差しあげ自分の手柄のようにするんだけど、蓮如上人は「浄土真宗ではそうではない」ときっぱりと否定されたよ。
そして、
この六字の名号わがものにてありてこそ、となへて仏・菩薩にまゐらすべけれ
つまり、この六字の名号が自分のものであるなら、これを称えてその功徳を仏や菩薩に差しあげることもできるだろう、でも念仏は自分のものではありませんよとおっしゃるんだ。
僕たちの口から出る名号、南無阿弥陀仏の念仏は、ぼくたちが称えているものだけど、ぼくたちから出てきたものじゃあない。阿弥陀様が作り上げ、信心とともに僕たちにくださったものなんだ。つまり念仏の出どころは阿弥陀様なの。
たとえば、いただいたリンゴを、くださったその人に自分の手柄のように差し上げたりしたら、おかしいよね。いただきものの名号を我が物顔に称えて、手柄にするのもこれと同じ。おかしな話になっちゃうよ。
歎異抄には「念仏は行者のために非行・非善なり」と説かれているよ。念仏は、ただ阿弥陀仏の本願のはたらきで称えられるものだから、称えるものにとっては、行でもなく善でもないということ。だから手柄にはなりようがないんだね。
続けて蓮如上人はこうおっしゃったよ。
一念一心に後生たすけたまへとたのめば、やがて御たすけにあづかることのありがたさありがたさと申すばかりなり
つまり、「仰せのままに浄土に往生させてください」と弥陀を信じておまかせすれば、ただちにお救いいただくことができること、そしてそれを「ありがたいことだ、ありがたいことだ」と喜んで称えさせていただく念仏が浄土真宗の念仏だとお示しくださっているよ。
称える姿は同じでも、他宗と浄土真宗では称え心が全然違うんだ。よく気を付けて念仏させてもらおうね。