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蓮如上人御一代記聞書54
「念仏申すは報謝の義」

 ある人が、蜂を殺してしまって思わず念仏を称えたんだって。その念仏をお聞きになった蓮如上人が、「今どんな思いで念仏を称えたのか」とお尋ねになった。その人は、「かわいそうなことだと、ただそれだけを思って称えました」と答えたそうだよ。
 すると上人は、

信のうへはなにともあれ、念仏申すは報謝の義と存ずべし。みな仏恩になる

 つまり、「信心をいただいた上は、どのようであっても、念仏を称えるのは仏恩報謝の意味であると思いなさい。念仏は、すべて仏恩報謝になるのだよ」とおっしゃったそうなんだ。
 この世に生きるすべての生きとし生けるものを衆生というよ。衆生には、人間も動物も虫や微生物まで含まれる。そしてその命に軽重はなく、みな等しいと仏法では教えてくださっているんだ。どうして等しいといえるんだろう。
 それはね、今は人間だったり虫だったりするけれど、過去のあるときは、この虫が人間だったかもしれない。人間のぼくたちが虫だったかもしれない。輪廻を繰り返す中でさまざまな姿に生まれ変わっているのがぼくたち衆生で、仏様の眼から見たら人間も虫もない、等しく「迷い苦しむ衆生」でしかないからなんだ。
 阿弥陀様はすべての衆生を救いたいと願いをたてられた。その対象には、人間も動物も、小さな虫までも入っているんだ。阿弥陀様の願いがかかっている存在として、僕たちの命も虫の命も等しいということになるんだよ。
 でも僕たちは、虫を殺してもなんともないね。日々の食卓で、阿弥陀様が願いをかけた多くの命を奪っているのに、なんとも思わない。まさに自分勝手であさましい迷いの凡夫の姿だよね。
 その僕たちの姿がそのまま、阿弥陀様の救いのめあてなんだ。このあさましさのまま、自己中心のまま、慈悲心のかけらもないまま、お救いくださるのが阿弥陀様なの。そうして称える念仏は、こんな私をお救いくださりありがとうございますという報謝の念仏になるんだよ。

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