蓮如上人の御生涯 3
「母との別れ」
京都東山の大谷本願寺で誕生された蓮如上人。すくすく育っていかれたけど、悲しい別れが待っていたよ。愛情をこめて育ててくださったお母様と、別れなければならなくなってしまったんだ。
応永27年、蓮如上人が6歳のとき、お父様の存如上人の正式な結婚が決まったよ。相手は幕府の奉行、海老名氏の娘で如円という方。身分が低く結婚できなかった実のお母様は、このままここにいては布袋丸(後の蓮如上人)の将来に影がさすのではないかと恐れ、ひそかに身をかくす決断をされたんだ。でも、愛する我が子と永遠に会えなくなると思うと、きっとそれは身を切るような苦しみだっただろうね。
お母様は、かねて用意してあった鹿の子絞の小袖を幼い布袋丸に着せ、出入りの絵師にたのんで我が子の肖像画を描かせたよ。そしてその肖像を形見として胸に抱きしめ、暮れも押し迫った12月28日、いずこともなく姿を消してしまわれたんだ。
この肖像画、「鹿の子の御影」として福井の超勝寺に今も残っているよ。お母様が持っていってしまったのに絵が残っているって、どうしてだろうね。実はこの肖像画を描いた絵師が、正副の二幅を描いていて、そのうちの一幅を持っていたんだって。後に蓮如上人が絵師を訪ねて譲り受け、母の形見として残されたんだ。
お母様は、身分こそ低いけれど、思慮深く、意志の強いお方だった。そして常々こうおっしゃっていたそうだよ。「布袋、あなたは親鸞聖人の嫡流です。日本にただ一人、聖人の血を継いだのがそなたですよ。どうかあなたの代で聖人のみ教えが日本中に広まるようにがんばっておくれ。これが母のただ一つの願いです。決して忘れてはなりませんよ」とね。
お母様への思いは心の奥深くに保たれて、後の蓮如上人の活躍につながたんだ。親鸞聖人のみ教えの正しい伝承や、上人のお言葉にあらわれる人間味のあるお心、さらに当時は誰も説かなかった女人往生の強調など。そしてついには本願寺を日本一の教団に育て上げ、母の念願どおりに親鸞聖人のみ教えを日本国中に広められることになるんだよ。